エルンスト・トゥーゲントハット&ウルズラ・ヴォルフ『論理哲学入門』

曇。


ショパン24の前奏曲 op.28 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチ。若い頃のアルゲリッチがようやくわかるようになってきた。


永井均『「青色本」を掘り崩す――ウィトゲンシュタインの誤診』を半分くらい読んだが、全部読むかは既にわからない。かつては永井均氏の哲学書をおもしろいと思ったし、また川上未映子氏の永井氏への共感もおもしろいと思ったものだが、いまや独我論は苦痛的に退屈である。「他人の痛みが想像できないのではない、他人の痛みはないのである。」それが延々と変奏される。それにしても、独我論者が書物を書いて、「他人の共感」を要求してくるとは何だか矛盾している気がする。いや、永井氏の求めておられるのはそれではないのだろうか。ではなぜ独我論者は書物を書くのか?
 ちなみに、些末事であるが自分も永井氏同様、統覚は超越論的統覚しかあり得ないと思う。そこは共感する。
 ところで、永井氏の独我論は「モナドには窓がない」というのとどうちがうのか。

なお、「丸い四角」はある意味では想像できないが、「丸い四角は想像できない」という文は理解できる。そうではないか?

このところ何だかすごくネガティヴだな。


散歩。

エルンスト・トゥーゲントハット&ウルズラ・ヴォルフ『論理哲学入門』読了。なかなかおもしろい教科書だった。こちらの実力不足でよくわからないところも多かったが。頭のいい人はいっぱいいますな。

論理哲学入門 (ちくま学芸文庫)

論理哲学入門 (ちくま学芸文庫)

しかし、「どうでもいい」というのは論理学にないのかね。どうでもいいって例えば英語ではどう言うのだろうか。ほんとどうでもいいが。

現代には深さがない。というか深さを捨てた。深さは論理的でないし、検証もできないからである。すべては表象に帰着している。


また永井を読んでいるが、どうも独我論者というのは他人の存在を必須とするもののようである。そもそも他人がいなければ、「独我論」の発揮のしようがないではないか!