フィッツジェラルド『夜はやさし』

曇。
よく寝た。というか11時間くらい寝た。すごくおもしろい夢を延々と見ていた。若い女の子と大阪を歩く夢。何でも熊の肉を食いに行くらしい。冗談みたいな夢だったのだが、何だったのだろう。

調子はよくない。サイテーという感じ。

もう精神が貧しくてブログも書きづらいのであるが、現代の貧しさはこんなものではない。まだまだ貧しさが足りないのかも知れない。いつも巡回しているブログに「生きるのもイヤだが死ぬのもイヤだ」とあったが、自分もまさにそのようなカスだと思う。しかし、僕の廻っているブログたちは豊かで救われてしまうのだが…。
 

モーツァルトのピアノ・ソナタ第十番 K.330 で、ピアノはエリック・ル。若いけれどなかなかいいモーツァルトを弾くな。まだ20歳か。


ブラームスクラリネット・トリオ op.114 で、クラリネットアンドレアス・オッテンザマー、チェロはソル・ガベッタ、ピアノはデヤン・ラツィック。なかなかよい演奏。

スーパー。モスバーガーのドライブスルー。ガソリンスタンド。今日は日差しがあって暖かい。

昼から県営プール。意外と混んでいた。陽が陰っちゃったな。

明日図書館に返さないといけないので、『夜はやさし』を読み継いでいる。「第二巻」まで読み終えた。確かに魅力ある小説だが、ちょっと話が痛ましすぎる。それに、詳細で正確な心理描写が疲れる。自分はいわゆる心理小説は苦手だ。それに、西洋の上流階級(正確にいうとちがうかも知れないが)の話…。自分にはほとんど関係のない世界だ。文章は翻訳(見事!)で読んでもすばらしいものだが。(PM10:16)


図書館から借りてきた、フィッツジェラルド夜はやさし』読了。森慎一郎訳。うーん、何というべきか。上にも書いたけれど、本書の世界はあまりにも自分とかけ離れている。極東の田舎に住んでいる中年のさえない独身男性と、本書のようなきらびやかな世界に何の共通性があるのか。また、自分には小説というものがわからない。本書には村上春樹が文章を寄せていて最後に収録されているが、たいへんな絶賛ぶりである。村上は本書を最初は評価しなかったヘミングウェイをさりげなく貶めつつ、そのヘミングウェイも晩年には本作を認めないわけにはいかなかったと、凱歌を挙げるのだ。本書は村上にいわせれば、脇は甘いが懐の深い小説、ということになる。何度読み返してみても傑作であると。正直に言うが、自分は本書の陰惨さがつらかった。若くてハンサムで能力のある男性を、このように破滅させる物語を読んで皆さんは楽しいのだろうか? 感動? まったく、じつに幼稚な小説の読み方であると我ながらお話にならないことはわかっているが、とにかく、人生人生、人生などどうでもいいのである。人生、崩壊、悲劇、まったくそんなものは世の中にあふれているので、いやまあしかし、そんなことを言っては小説など読めないな。そもそも、何で自分は小説を読むのか。破滅していく男の心理解剖。どうも自分のような幼稚な人間には、本書は高級すぎたようだ。
 しかし、本書の翻訳はみごとだった。最近の翻訳の文章の質はおしなべて高い。日本人は翻訳にこれほどの能力とエネルギーを使っていいのかとすら思う。いやまあしかし何だかな。どうも釈然としないものが残るな。(AM00:09)

夜はやさし

夜はやさし

なお、原著には構成の大きくちがう、オリジナル版と改訂版の二種類の版があるが、本書はオリジナル版の方の翻訳である。古い角川文庫に収められた翻訳は改訂版に基づく。フィッツジェラルドは本書の出来栄えに自信をもっていたが、あまり評判がよくないのにショックを受け、指摘を受けた構成を変えたのが改訂版というわけである。


いつも読んでいるブログに『ブッデンブローク家の人びと』の話題があって懐かしかった。だいぶ前に読んでもう中身はあまり覚えていないが、ちょっとモノトーンの(暗いドイツの冬のイメージがなぜかある)重厚な大河小説だったという印象が残っている。マンはこの小説を非常に若いときに書いた筈で、確か(うろ覚えだが)それは10代だったのではないか。いや、10代で書き始めたのだったか、それともまったくの記憶ちがいか、とにかく凡庸な作家なら一生かかっても書けない小説なので驚いた覚えがある。去年『ファウスト博士』を読んで、岩波文庫のマンはほとんど読んだのではないかと思う。いまやドイツの重厚な小説を読むひとがどれくらいいるのか、自分はブロッホの『ウェルギリウスの死』などは未読であるが、どうやらこれが文庫化される日はこないかも知れない。川村二郎先生の翻訳なのだが、集英社は眠らせておくつもりなのだろうか。いまや結構な古書価がついておりますが。