諏訪哲史『りすん』

曇。


ハイドンのピアノ・ソナタ第三十三番 Hob.XVI-20 で、ピアノはエミール・ギレリス

今日の PC 遊び。

さすがに疲れてきた。まーえーわ(方言、笑)というか、ちょっといいかげんにしておけという感じ。これと在来の感性を結合させないとなあ。
まあ集中しないとものごとは習得できないので、それはそれでいいのだが。


図書館から借りてきた、古川昇『基礎からわかる Go言語』にざっと目を通す。Go の入門書を読んでみました。C言語を書きやすくした感じ。オブジェクト指向言語ではないようだけれど(クラスや継承がない)、「メソッド」と「インターフェース」がある。コレクション型は配列とそれを使った「スライス」、そして「マップ」(Ruby でいうハッシュ)がある。エラー処理は言語として最小限度しか提供されていない。そして目玉は何といっても簡単に並列処理を可能にする「ゴルーチン」。ってこんな感じでいいですか。ちょっとインストールしてみよう。

改訂2版 基礎からわかる Go言語

改訂2版 基礎からわかる Go言語

シンプルな言語ですね。関数は第一級関数。クロージャとかはどうなっているのかな。(後記:関数はちゃんとクロージャになっているようです。)

図書館から借りてきた、諏訪哲史『りすん』読了。悲しみに満ちた対話体の小説であり、またかつて喧しかったジャンルである実験的小説(メタフィクション)である。本書は舞台が病院で、重篤な病でそこに入院している若い女性と、その「兄」との対話から主に成り立っている。って、読み始めるといきなり面食らうが、会話はほとんどふざけた調子で、しかしそれは重病人の感情として我々も理解できるものだ。病は次第に重くなっていくわけであるが、同室のもうひとりの入院患者の不思議な挙動から、話はメタフィクションの方に展開していく。そこには難解な文学理論とその実践までが書かれているわけで、正直言ってこのあたりは自分の理解を超えていた。しかし、小説としてふざけたような悲しみに満ちた、ふつうに魅力的な小説として読んでいいのではないか。いや、難解なメタフィクション的実践を盛り込みつつ、小説としておもしろく読ませるという、贅沢な作品と捉えてよいと思う。
 確かにあまり「うまい」小説でなくて、うまくハンドルできていないないけれども著者が全力投球していることは明らかである。もしかしたらこの小説は後世に傑作として残らないかも知れないが、そんなことはいいのだ。ちなみに登場人物のひとりである祖母の話しているのは名古屋弁であり、岐阜の人間としてはそんなこともうれしかった。エッセイ集『スワ氏文集』とはだいぶちがう読者層を想定しているのかも知れないが、ふざけたような悲しみという点で共通するところがあると思う。おそらく著者が人気作家になることはあり得ないが(スミマセン…)、いまやこういう歯応えのある小説家が少なすぎるのだ。

りすん

りすん

なお、本書は芥川賞受賞作である「アサッテの人」を読んでいるとわかるところがある。しかし、読んでいなくても一向に差し支えはない。

人生とは崩壊の過程であるといった人がいたが、本書のストーリーもまた崩壊の過程を記したものかも知れない。そこにあっては、過去はひたすら美しくかつ思い出すにつらいものである。諏訪氏は鬱を患っておられるようだが、木村敏先生は鬱をポスト・フェストゥムの病と呼んだ。そこではまさしく過去はひたすらに美しいのである。ちなみに自分はアンテ・フェストゥムの方であり、過去はあまり気にならない。いや、本当に自分はそうなのか?