渡辺正峰『脳の意識 機械の意識』

晴。
俗な夢を見た。


ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第三番 op.12-3 で、ヴァイオリンはダヴィッド・オイストラフ、ピアノはレフ・オボーリン


ブラームスの創作主題による変奏曲ニ長調 op.21-1 で、ピアノはマリア・グリンベルク。こんな曲があったのか。初めて聴くな。


フォーレの四つのヴァルス・カプリス op.30, op.38, op.59, op.62 で、ピアノはジャン・フィリップ・コラール。

お金が要らないと思われる数学ですらこれ。書籍代もだけれど、出張費や光熱費、コピー代などがない…。しかも研究そのものではない書類を作るのが大変で研究の時間が削られる。さらに教育までしないといけないとは。もうほとんど手遅れ。おしまい。ちなみに上の「フィールズ賞の受賞者かつ国際数学連合のトップ」というのは、日本の至宝といわれる森重文先生らしい。泣けてくる。

iPS の山中先生も、シンガポールからの招聘に応じた方が人類のためになるという意見があって、確かに正論。シンガポール大学はアジアのトップだし、潤沢な資金を与えられて研究に専念できる。山中先生が日本にいるのは、日本のためを思ってだけだろう。しかし、ホント文科省は何を考えているのか。自国の大学の機能を破壊して何が楽しいの?

また、上のツイートについているリプライがひどくて、日本人も何なのかという感じ。お金がなくても数学はなくならないが、研究施設がなくなるだけのこと。で、優秀な研究者が外国へ行ってしまう。それは確かに個人の勝手で、僕も別にそれで日本がダメになろうが既に不感症になっている。

しかし、こんなことを書くのはいいかげんにして、本でも読もう。

重力場の破壊。

渡辺正峰『脳の意識 機械の意識』読了。いまちょっと調子が悪いし、読んでからだいぶ経っているし、アルコールが入っているしで、まともな感想文にならないことをお断りしておきたい。まずは最新の脳科学の本を読んで、それは非常におもしろかったし、またこのところ脳科学の発展をフォローアップしていなかったなと思わされた。正直言って、本書は相当に専門的で、その内容を完全に理解したとはいえない。その限りでの感想である。本書ははまずは我々の「意識」の研究の最前線を描いている。しかし、いったい「意識」とは何か、それはいったい何を対象としているのか、という疑問が湧くかも知れない。本書によればそれは簡単で、意識は「クオリア」であるとされる。クオリアといえば日本ではだいぶ以前に茂木健一郎氏がはやらせた概念で、その際は哲学者や哲学者っぽい人たちにはどちらかといえばバカにされていたように記憶している。しかし、本書では(あるいは脳科学では)クオリアの存在は既にまったく自明のようであり、それゆえ「意識はクオリアである」とされるのだ。自分には本書の「クオリア」は「表象」とどこがちがうのかよくわからない。しかし、それについては脳科学を受け入れることにしよう。
 ただ困るのは、本書の記述が具体的であり、それゆえ単純な要約を許さないところにある。本書で重要なのは後半に出てくる「NNC(Neural Correlates of Consciousness)」という概念である。簡単にいうと、NNC は意識を生じさせるための最小限度の十分条件ということである。著者らの研究は、NNC が「十分条件」であるがゆえに、それを消去法で特定しようというアプローチだといえる。その具体的な記述が本書の山場であり、堪能して頂きたいという他ない。結論から言えば、まだ決定的な成果は挙げられていないが、どうやら突破口は見えてきたようだ、という感じであろうか。これはもちろん自分の印象である。
 あとは思いつくままに書いておこう。まず本書は「意識」についての本であり、例えば「意志」についてはほとんど何も述べられていない。しかし、いわゆる「自由意志」の問題については簡単に触れられてあって、どうやら学界のコンセンサスは「自由意志は存在しない」ということであるようだ。というか、「自由意志」は脳が仮構するものであり、現実には意志は例えば「カオス的決定論*1」であるかのようである。このことはまだ我々の日常では問題になっていないが、我々の「意志」が決定論的であるとすると、例えば法的な「責任」の概念はまったくその根拠を失うことになる。法哲学の再構築は必須になるだろう。それにしても、脳を研究してそれが「決定論的」であるとする脳科学者の意志もまた「決定論的」なのであるから、自分にはそれがどういうことだかいまひとつよくわからない。誰かかしこい人が教えてくれるものだろうか。
 それから、本書では機械が意識をもつということがマジメに論じられているが、自分によくわからないのは、機械が意識をもったとして、我々はその事実をどうやって知ることができるのだろうということである。というか、我々は実際には他人が意識をもつことすら実際に確かめることは不可能である。我々は、自分が意識をもっていることから類推して、他人も意識をもつといえるにすぎない。まあしかしそれも厳密にはちがうのであり、我々はたんに他人が意識をもっていることをただ知っているのであり、それを疑うことはないというのが正解であるが。
 あと自分が本書でおもしろかったのは、ちらりとだけ出てくるのだけれど、「無意識」は脳のある領域に固定されてあるのではなく、意識の領域とともに局所的に、まだら状に分布しているのではないかという記述であった。もうひとつ、著者は「神経回路網に実装される神経アルゴリズムが、決定論的カオスの因果性の網に包まれる」(p.283)という表現を何の気無しにしているが、これは大変な含蓄をもっているように感じる。それは措いても、神経回路網が「因果性」を把握するというのは、じつに不思議なのだ。
 以上、大変におもしろい本でした。しかし正直なところを言うと、我々はこんな領域に携わってよいものだろうか。既に「自由意志の否定」さえ、真剣に考えれば我々の生活を根底から覆してしまう射程をもつだろう。人間の意識を機械に移し替えるとなると、まさしくSF「攻殻機動隊」の世界である。こうしたことがまるで危機感なくあっさりと扱われてしまうことに、おそろしさを感じないではいられない。それは、ただ自分が時代遅れな存在であるゆえだけなのであろうか。

*1:ここでいう「カオス」は数学的なもので、一種の非線形微分方程式系のことを指す。