ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』

曇。
朝起きて何時間も睡眠の後始末にかかるのはつらいのだが、これが自分のいちばんの仕事だと思って頑張る。なかなか安定化しないのだけれど、まあ行き詰まってはいない証拠(?)と思ってみずから慰める。凡夫。

ザリガニが見ていた...。
既に更新されていないのだが、「ザリガニが見ていた...。」というブログがあって、プログラミングの話がおもしろいので時々見ている。で、そこにいわゆる「ペントミノ」パズルをプログラミングで解くのにチャレンジするという記事があって、これが頗る楽しかった。

ペントミノっていうのは皆んなよく知っている

というやつである(画像は元記事から借用しました。感謝!)。じつはこの記事を見かけて考え方は読まず、自分で考えてみたが、とても解けなかった。で、ギブアップして先ほどコードを読んでみたところなのである。いやあ、最初の Python のコード、すごいですね。ザリガニさんも考えてみたがわからず、検索して見つけたというコードだ。しかしまあそれだけならかしこい人はいるもんだみたいなので終ってしまうが、ザリガニさんの解説と高速化のための modify の話がおもしろすぎる。僕にはこういう記事は書けないなあ…。

業務連絡です。mathnb さんは母のブログのコメント欄にわたくしのどうでもいい話を書かないで下さい。母もわたくしも不愉快に感じておりますので。マナー違反です。


僕のいつも巡回しているブログ(特に名を秘す)に、こんな文章があった。

それにしてもなんだろう、もう人間というものは本当に不要なのだと思わずにはいられない。必要とされる人間、この世に居場所があっていいと許されている人間は、多く見積もって上位2%くらいではないだろうか。あとはもう、機械と変わらないか、機械以下の存在にすぎない。壊れたら捨てればいい。そんなものでしかない。そして、AIやらなんやらの進化によって、そのブルースは加速していく。避けられない道だ。

僕もこれはそのとおりだと思う。僕は人間が元からこうだったとは思わない。しかし、社会というものはこうなるように「進化」してきた。いまや、お互いにカス呼ばわりするのがふつうの時代である。そして皆んなカスになっていく。人間の尊厳などというものはない。子供を作らないのは、皆んなそのことに気づいてしまったからだというのはおそらく正しい。あとは、死ぬまで快楽中枢を刺激し続け、苦痛を麻痺させるしかない人生だ。いや、それはあまりに悲観的だろう、ほとんどの人間は楽しく家族を作り、幸せに一生をすごしている筈だと言われるかも知れない。ああ、すばらしい、そういう人たちがひとりでも維持できることを心から願いたいと思う。

唯一希望があるとすれば、それは弱者の存在だ。弱者ほどこの事実に早く気づくことになっているからである。そして日本という社会は弱者を圧殺する。すばらしき社会の到来!

それにしても、「壊れたら捨てればいい」とは言い得て妙だ。日々「壊れた人間」が廃棄されていく。幸せなあなたも、一旦「壊れた」らもうおしまいである。まわりは神妙な顔つきで、「悪いね、本意ではないのですよ、きっと誰かが助けてくれるさ」とかいいつつあなたから去っていくだろう。しかし、あなたはそこで事実を認識すべきだ。事実がわかれば、まだまだ我々は生きていける。そんなにまでして生きてどうするといわれればそれはそうだが、まあ生きていればいいのである。自分もだらだらと生きているだけである。そうやって生きていれば、人生などそんなに長いものではない。心配しなくてもそのうち終わります。


ああ、クラいな。僕は普段はそんなにクラいやつではないのだが、文章を書くとついクラくなっちゃうな。どちらの自分も本当の自分なのだけれど。

夜、仕事。ひどく寒いな。

上でひたすらクラいことを書いたが、いまの高校生たちは多くは(自分たちではあまり気づいていないのだが)その根底でどうしようもなく絶望的なので、おもしろいことに、僕は奴らを元気づけるようなことばかり言っている。いや、ひたすら呑気なことをほざいているというか。奴らは「本当ですか? そんなことを信じていいのですか」と訊いてくる。僕が奴らに教えてやれるのは、結局、失敗などしたところでじつは致命的なんかではないということだけだ。一方で、アマい考えはあっさり潰してやる。そして、自分の中に真実があれば、奴らは僕からそれを勝手に読み取っていくだろう。それくらいのことはわかっている。何を読み取るかは、それぞれだろうが。

しかし、奴らを見ていると勉強はできても本当に何も知らない。そして、奴らのまわりにいる大人たちも何も知らないことが痛切に知れる。ってちょっと傲慢ですね。あーあ。

ジル・ドゥルーズ『ザッヘル=マゾッホ紹介』読了。堀千晶訳。副題「冷淡なものと残酷なもの」。自分はドゥルーズがわかるふりはしない。けれども、そのおもしろさに言及しないわけにもいかない。って矛盾しているので正確なところをいうと、自分はちょっとだけドゥルーズがわかるのだ。そしてそれだけでも充分におもしろいのである。じつに、自分の頭の悪さが残念である。でなければ、もっともっと楽しめるのに。僕は例えばデリダがよくわからなくてもさほど残念ではないが、ドゥルーズに関してはその反対だ。
 しかしテキトーなことをいうが、ドゥルーズはたんに書かれた内容がおもしろいだけではないのだな。本書の訳者解説には色いろ教えられ、なるほどと思ったところが多かったが、ドゥルーズの本文を読んでいるほどおもしろくないのである。ドゥルーズの文章の魅力を語るのは自分の手に余ることだが、こんな新鮮な文体で哲学を語った人はまず他にはいないとでも言うか。まあこんなのは何もいわないのに等しいので、とにかくまあ読んでみて下さいとしか言い様がない。自分もわからないなりに、またドゥルーズをきっと読み返してみたいと思っている。楽しみはまだまだ残っているのだ。(AM01:37)

しかし、「入門書」でドゥルーズをお勉強しても、イヤになっちゃいませんかね。もちろん研究者になりたかったりエラそうなことを言いたかったりするのならそれではダメだが、わかるふりをしないでいきなりドゥルーズ自体を読めばいいのではないのかな。我々は、別に好きで読んでいるのだから、わからないのにわかるようなふりをしなければいいのだと思う。まあ、読み方の「正解」ってのがあると思い込んでいるのなら仕方がないが。しかし、それこそ「ポスト構造主義」的な読み方ではないんじゃないの? どうでもいいけれどね。