朝吹真理子『流跡』

日曜日。晴。
目の覚める前、半覚醒状態のときに何か撃ち抜いて、今までぼーっとしていた。どうも自分の中に何があるか知れたものではない。(PM01:41)

昼食前に住友生命の僕の担当とかいう人が仙台から電話をかけてきて、送られてきた資料を見させられながら保険の勧誘を受ける。医療保険がどうのって、独身で扶養家族もいないし、そもそも保険代を払うような余分な金がないというのがなかなかわかってもらえない。正直言ってうんざりさせられるし、時間のムダなのだが、その担当の人というのに文句をいってもどうしようもないことはわかっているので、とにかくお金がないんですと言って引き取って(?)もらう。相手もノルマがあるのだろうし、日曜出勤なのか、それは気の毒な気は大いにするのだけれど、こっちも冷徹に対応するしかない。しかしねー、保険って未来がある人のためのものなので、自分なんかに意味はないというのがわからないのだな。まあすげなくしてごめんなさい的であるが、しかし何で仙台なのかね。こっちは岐阜なのですけれど。


昨日モーツァルトのレクイエムを聴いたせいで、ずっと Dies irae の音楽が頭の中をぐるぐる回っている。ガーディナーの指揮はいまひとつ共感できなかったのだけれど、たぶんこちらの調子が悪かったせいなのだと思う。

 

シューベルト即興曲集 op.90 D899 で、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン。ツィマーマンは好きなピアニストだと言わざるを得ないな。我ながらちょっと意外だが。ツィマーマンは知的なピアニストであるけれども、この人の知性は冷たくない。決して感情から乖離することのない知性なのだ。確かに優等生的なピアニズムだが、スケールは大きく、こせこせしていない。やはり、現代を代表するピアニストのひとりであることは疑いない。

図書館から借りてきた、朝吹真理子『流跡』読了。著者の小説は『きことわ』は読んだ筈である。中身はまったく覚えていない。本作は著者の処女作であり、堀江敏幸氏がドゥマゴ文学賞に選んで話題になったのでは確かあるまいか。まことに文学文学した小説で、自分のような者にはよくわからないといってもよい。確かに才能は感じる。けれども、あまりにも才能だけで書いているようで、このままでは才能が続く限りでしか書けないことは明らかだ。著者はおそらく典型的な「文学少女」で、とにかくカッコいい小説が書きたいという欲望が字面からむんむんしているように見えてしまうが、それは下衆の勘繰りというものであるかも知れない。いま著者が売れているのかそうでないのか、いま何を書いているのか、何も知らないけれど、いまどき小説を書こうというならそれは奇特なことである。頑張ってもらいたいものだ。

流跡

流跡

 

リストのピアノ・ソナタ ロ短調で、ピアノはラザール・ベルマン。深い感銘を受けた。この曲の演奏では自分にはポリーニのそれを超えるものは考えられないのだが、だからといってこれに感動することを妨げないのである。ベルマンはよくいわれるとおり 19世紀的なピアニズムの継承者であるといってよいので、ここでも強弱陰陽、はっきりとコントラストをつけた大見得を切った演奏スタイルである。それがまた、何とリストにふさわしいことか。しかし、感情過多のぶよぶよした演奏とは正反対のそれで、タッチは引き締まり、むしろイン・テンポな音楽作りだ。技巧も最高度のもの。自分はこれまであまりベルマンを聴いたことがないのだが、リストの「巡礼の年」の録音はこの曲のそれを代表的するものであると思っている。自分はこのロ短調ソナタと「巡礼の年」をリストの中でもっとも愛するのだけれど、とりあずベルマンを聴いておけば問題ないと思う。それにしても、ロシアのピアニストってのはどうなっているのだ。巨人ばかりではないか。