エーリッヒ・フロム『悪について』

雨。


バッハのイギリス組曲第二番 BWV807 で、ピアノはアリシア・デ・ラローチャ


ブラームス弦楽六重奏曲第一番 op.18。見事な演奏。しかし、ブラームス(如き、って言っていいのか)に及びがたいのを感ずるな。


バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第一番 BWV1001で、ヴァイオリンはアルテュールグリュミオー

エーリッヒ・フロム『悪について』読了。新訳。他人に同意を求めるわけではないが、一読してじつに下らない本だと思った。何というか、反論するというよりは、バカバカしくて語る気も失せるような感じである。例えば、喫煙者について。

ほぼ確実に、自らの決心に従うことができないと予測できる人を想像してみよう。その人は母親的な存在に深く結びついていて、口唇受容期的性向を持ち、常に他人から何かを期待し、自己主張ができず、そうした性質のために慢性的に強い不安に駆られている。このような人にとって喫煙は唇の欲求を満たし、不安から身を守るものである。タバコは彼にとって、力、大人としての成熟、行動力の象徴なので、それなしではいられない。(p.182)

ひどい言われようであるが、そもそもこのような粗雑な考察を平気で書きつける神経が、自分には理解できないのである。また、例えば第三章と第四章は「ナルシシズム」について書かれているが、著者は概念である「ナルシシズム」をほとんど実体化してしまっている。それにしても、「仏教の教えにおける”目覚めた人”とは、自らのナルシシズムを克服し、そのため完全に自覚することができる人のことである」(p.119)とは笑える。フロムが仏教について何を知っているのか、いやまあそれは自分にはわからないわけだが。あと目についたのは、著者のヒトラー観である。著者はヒトラーをナルシシスティックな異常者、幼稚な狂人と単純に捉えているが、自分には中学生なみの理解だとしか思えない。こんなことではヒトラーの亡霊を追い払うことなどできないことを、自分は確信している。そんなこんなで、本書は全然納得できなかった。
 まあしかし、フロムは別に自分にはどうでもいいのだ。ベストセラーを書いている人であるから、それらにも目を通してみたい。本書を読んでつらつら考えさせられることはあったので、それはあまりフロムとは関係ないのだけれど、突然だが自分は「論理」は「暴力」であると確信している。我々は「論理」から決して離れられないがゆえに、「暴力」からも離れられないのだ。このことは、さらに考えていきたいと思っている。

悪について (ちくま学芸文庫)

悪について (ちくま学芸文庫)

僕には本書の問題の立て方がそもそもまちがっていると思われる。例えば本書の惹句に「私たちはなぜ生を軽んじ、自由を放棄し、進んで悪に身をゆだねてしまうのか」とあるけれども、このような問題意識からは意味ある考察を導くことがむずかしいのだ。そのようなことはどうでもいいことなのである。確かにそのような事実はあり得るのかも知れない。ではいまのあなたに訊きたいが、あなたは生を軽んじているか? 自由を放棄しているか? 進んで悪に身を委ねているか? 特にそういうわけでもあるまい。むしろその矛盾自体の方が、より問うに値する問題に他ならないのだ。