ブレイディみかこ『労働者階級の反乱』 / ポール・オースター『闇の中の男』

晴。

今日は一日早い「鏡開き」で、一年ぶりにぜんざいを食した。僕はおもちが好きなのだけれど、今日はちょっと量が多くて食べ過ぎの感じ。ちなみに当地のお雑煮はきっと日本一シンプルなもので、四角いもちと「もち菜」が入っているだけなのです。他には一切なし。だから、もち自体がおいしくないと食べられないし、そうしたおいしいおもちだとこれ以上おいしい雑煮はないと、当地の人間は確信している。


昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー。少し前に話題になっていた、ブレイディみかこの新書本を読む。これはなかなかおもしろい。著者はイギリス在住で夫がいわゆる労働者階級の人であり、一昨年のイギリスの EU からの離脱を問う選挙で、彼女の夫も含む周囲の多くの人が「ブレクジット」(Brexit=EU 離脱)に投票してそれが多数派になった。その「衝撃」を理解するための「お勉強」の成果が本書ということである。まだ半分くらいしか読んでいないが、イギリスの現在の「労働者階級」というものがこんなだとは、自分はまったく知らなかったし、またその中身も結構意外な感じがした。こういうと自分の偏見丸出しなのだが、西洋人というのは「労働者階級」でもはっきりとした理詰めの意見をもっていますね。自分などはこれに比べたら全然論理的でない。しかし、悪い言い方をすると「理屈のつかないことはない」みたいな悪しき日本人的な感想をどうしても抱いてしまうところがある。ただ、「他者」と向き合うには「論理」が欠かせないことにも気づかされる。つまり、わたくしなどは真に他者に向き合っていないということであるのだろう。さらに読みます。

しかし、フードコートはうるさいね。ノイズ・ミュージックを大きい音で流している中で読書するようなというか、まあそのうち慣れてはきますけれど。前行っていたミスドのほうがよかったけれどなあ。
イオンに入っている本屋へ行ってみたのだが、ちゃんと岩波文庫ちくま学芸文庫などもありますね。それらの新刊は入っていないのだが。ひさしぶりにメジャーな文庫レーベルの背を色いろとながめていたのだが、じつに知らない作家ばかりになっている。やはり本に対しても次第に好奇心がなくなってきているのかなと思った。結局、一冊も買いませんでした。

ブレイディみかこ『労働者階級の反乱』読了。上にも少し書いたが、全部読み終えてみると多少読後感がちがった。本書の問題意識としては、現在のイギリスにおいては「労働者階級」の語の頭に「白人」の付いた、「白人労働者階級」というものがあって、それらがじつはマイノリティに見えないマイノリティになってしまっているというものであろうと思われる。でもね、自分にはそれは興味深い事実ではあるが、いまひとつ自分にとっての切実感がなかった。それよりも、まあ情緒的な読みになるが、本書第三部の「英国労働者階級の100年」という、歴史の話がおもしろかったのである。有り体に言ってしまうと、日本の政治はひどい話が多いと思っていたが、イギリスもこれはこれでひどいものだなあなどと思ってしまったのだ。例えば長期政権だったサッチャー首相の考え方というのは、成功者は優秀でまともである一方、経済的弱者は怠け者のクズにすぎないというようなもので、これがあまり誇張でもないというくらいなのだった。そのサッチャー政権が、11年間も続くのである。日本でも次第にそのような「新自由主義」的な考え方が多く見られるようになってきたし、この傾向はさらに続くであろう。まあ、頭のいい人たちが色いろ考えるだろうが、何が正しいのかねという感じである。それはともかく、本書は骨太な本で、自分にはなかなか消化できていない内容の濃さ・深さをもっていることは疑いない。誰が読んでも、それなりにおもしろく、また有益な本であろう。


図書館から借りてきた、ポール・オースター『闇の中の男』読了。柴田元幸訳。うーん、何というか、素直にこの小説を読めば、たんなる失敗作であるというほかない。この小説は、その中で小説を書いている老人と、その書かれている小説の同時進行という、実験的ではあるがある意味陳腐な仕掛けで展開していく。そして、小説内小説の主人公が語り手の老人を殺すという展開が予想されるように話は進んでいく。けれども、その小説内小説は途中で無意味に主人公が殺されてしまい、あとは老人とその(破綻した)家族の話が脈絡もなく続いて、終わりもまたテキトーなものである。何というか、小説家オースターに「やる気がない」。老人の話も小説内小説もどちらも、正直言ってまったく退屈かつ陳腐である。
 巻末の訳者解説によれば、本書はいわゆる 9.11 に関した小説ということになる。9.11 とは思い出さねばならないが、2001年9月11日に起きた、いわゆる「同時多発テロ」のことである。また、その帰結の対イラク戦争。確かに本書の小説内小説の中で、それに関する固有名詞が言及されたりすることは事実だ。しかし、それ以外の少なくとも外面的な関係は現実と小説の間にはなく*1、いま読めばよくわからないというしかない。訳者の柴田氏は何度も 9.11 を強調されて、本書は特に失敗作とされることもない(まあ、訳者としては当然であるが)。もともと僕にはポール・オースターという作家はよくわからないというか、あまりおもしろく読めないのだが、世間では人気があるようだ。もちろん、それで世間がまちがっているというつもりはない。皆さんが読んで判定して下さるとありがたい。

闇の中の男

闇の中の男

何となくアマゾンのレビューを覗いてみたのであるが、絶賛の嵐である。皆さんはそちらを参考にされるとよいと思う。


 

驚くべき話だ。上の津上俊哉氏の論考というのを是非読んでみて欲しい。ツイートしている山下ゆ氏はこの論考を肯定しているようだが、あらゆる「過去の行為」も含めた莫大な個人情報が他人(あるいは国家を含めた何らかの組織)の利用可能になるとは、そんなことが許される時代がくるのか。細かな「犯罪」も含め、あらゆる個人の「信用」が数値化されてビジネスや政治に使えるようになる…。例えば「信用」の点数の低い人間は、電車も飛行機も利用できないとか。津上氏の論考では「デジタル・レーニン主義」と冗談ぽく呼ばれているけれども、これが「全体主義」でなくて何なのか。もうそういう時代が始まっているということなのか、津上氏はプラグマティックな対応をするべきという立場であるようだが…。また、完全なる「数値による階級社会」の誕生でもあるだろう。「中国ススンデル、スゴイ」はわかるが、マジですか…。若い人たちはこれを受け入れるしかないのかな。おっさんはあんまり長生きしたくなくなってくるな…。

それにしても、「個人情報の保護」が否定的なニュアンスを帯びるような時代がくるのかも知れないとは。変な話だが、「犯罪をする自由」がなくなるのは歓迎すべきことなのだろうか。ここで基本的なことを指摘しておくと、何が「犯罪」なのかは定義による。その「定義」をする人間乃至組織はというのは、いったいどういうものになるのか。仮にその「定義」をするのが国家だとして、そうすると国家が特定の個人を破滅させることが一瞬で可能になる、そういう時代の到来があり得る…。反権力、反体制ということは不可能になる…。

とうとうそういう時代が来るのか。

*1:ああそうだ、語り手の老人の孫娘の元パートナーが、イラク戦争関連の「テロ」で殺害されるという記述もあったな。しかし、それが何だというのだろう。これで対イラク戦争が批判されているということにでもなるのだろうか。たぶん、著者はこのエピソードを全体のオチにしているというつもりなのであろう。