中沢新一『アースダイバー 東京の聖地』

曇。

中沢新一『アースダイバー 東京の聖地』読了。築地市場についての部分は昨日読んだので、今日は明治神宮について。これもおもしろかった。まあ細かいことは書かない。中沢さんの最近の思考の中では「中間的知性」というものがますます強調されているが、これは中沢さんがものを書き始めた頃からはっきりと意識されていることで、その一貫性には感動的なものがある。世界から立ち上がってくるものをみずからの回路で捉え、それを根から断ち切らずに表出する。それは必然的にローカルなものとなる。しかしいまやすべてのものが根から断ち切られて記号化され、情報としてグローバルに流通していく傾向が全面化しつつある。中沢さん的な思考はエロティックで(!)気持ち悪いものだと捉えられる。自分でも痛感するが、いまの若い人たちは「サトリ世代」といわれていてエロティシズムに対する一種の恐怖心を根底に抱えているけれども、それは大地からの離脱を意味しているのであろう。自分にもそういうところは確実にある。そのような意味では、中沢さんをずっと愛読してきた自分ではあるけれども、まだまだ充分中沢的ではないのだ。さらに脱線するなら、今日の「快楽中枢の刺激」とエロティシズムは、どうも同じものではないような気がする。これは重要なことなので、個人的に留意しておかねばならないと思っている。
 そう、いまや文章がますます論理的な「記号の操作」に還元されつつある! 自分はそれには本当に違和感がある。デラシネされた記号の操作であるがゆえに、わずか170字のツイートがこれほど隆盛を極めているのだ。そもそも、自分の文章(というかブログ)が読まれないのはそれが論理的に書かれていないからである。これはもちろん、自分はまったくいいことだとは思っておらず、たんにメチエの欠如に過ぎないが、自分の内部にあるモヤモヤを正確に描き出そうという自分の試みからして、なかなか整然とした論理的な文章に落とし込むことがむずかしい。これはこれからの努力課題である。けれども、それで自分のやり方を殺そうとは思わない。
 個人的なことを書いてしまった。最近の三冊の中沢さんの新刊は、まことに自分のもとめていたものであることがはっきりした。これからも繰り返し読むことになると確信する。そして、まだまだたくさんある中沢さんの単行本未収録の文章が出版されるのを待ちたい。

アースダイバー 東京の聖地

アースダイバー 東京の聖地

昼から図書館。ガソリンスタンドとドラッグストアにも寄った。寒いですね。
吉本隆明全集を読む。

夜、仕事。

吉本さんを読んでいると、浅田さんの「吉本隆明はわからない。私は吉本を評価しない」という言葉をよく思う。何、浅田? そんな過去の奴のことなど放っておけという人が大部分であろうとは思うが、自分はそうはしないのである。というのも、自分は浅田さんの意味するところがよくわかる気がするからだ。確かに、自分にも吉本さんはよくわからないところがたくさんある。もっともそれは浅田さんとはちがって、自分の知識も能力も足りないせいが大きい。しかし、それを措いても浅田さんのいうところはわかる気がするのだ。何というか、自分の本の読み方は、文章の発出してくる源泉を捉えようというそれである。僕が思うに、吉本さんの文章が発出してくるところは、精神のまことに彼方の領域である場合があるのだ。そこは既に、論理的な文章の到達しうる領域ではなく、それを語ってしまうがゆえに吉本さんは詩人なのである。僕は吉本さんと中沢さんはかなり似たところがあると思うのだが、中沢さんは吉本さんとちがって、吉本さんのように一気に源泉から語らない。中沢さんは一歩一歩論理によって橋頭堡を構築し、できるだけ論理的な文章で語ろうとする人だ。高山さんが中沢さんとの対話で仰っていたとおり、いかに世評とちがおうとも、中沢さんは論理の人である。中沢さんは、吉本さんのように、読者の理解を超絶するということはあまりしない(しかしそれは、中沢さんがわかりやすいということでも、よく理解されているということでもないのだが)。それは、中沢さんが吉本さんよりあとの世代の人間であり、また吉本さんより世界が広くて、使える道具をたくさんもっているゆえでもあるだろう。また、誤解を恐れずにいえば、中沢さんは吉本さんよりも頭がよかった。さても、吉本さんを読んでいると、その生きている「場所の悪さ」に愕然とすることがある。こんな状況で、よくもここまでおやりになったとつくづく思う。まったく中沢さんのいうとおり、吉本さんは同時代の誰より、広く深く考えた人であった。そして、呆れた貧乏生活の中で家族を大事にし、家族から愛され、立派に子育てして死んでいった。めったにいない、偉大な生活人であったと自分は思う。

…どうもうまく言えていないな。まだまだだ。