トーマス・マン『ファウスト博士(下)』

日曜日。曇。

ハイドンのピアノ・ソナタ ハ長調 Hob.XVI-50 で、ピアノはベン・スクーマン

昼から仕事。車中でモーツァルトのピアノ・ソナタ第一番の演奏を聴いていて身に沁みた。クラウディオ・アラウの演奏である。この曲はモーツァルトの最初のピアノ・ソナタというわけではなくて、もっと以前にも書いている筈であるが、この曲から自信をもって第一番ということにしたのだと思う。けれども、一〇代のときの作品であることはまちがいない。フレッシュですでに奥深い曲であり、モーツァルトのすべてのピアノ・ソナタの中で個人的にいちばん好きである。
最近ときどき思い出すことがある。先日読んだ若松英輔の本にあった話だ。鈴木大拙はエラノス会議の常連であったが、個人的にユングを訪ねたことがあるらしい。そのとき大拙ユングに、どうして collective unconsciousness などと言って cosmic unconsciousness と言わないのかと問うたという。そのときのユングの返答は、私は科学者だからというものだったらしいが、大拙はそれに深く失望したらしい。あとで同行者に、"He limits himself." とつぶやいたという。それは若松英輔に翻訳させると、「小さくまとまりおって!」ということのようだ。それだけのことである。ほとんどの人にはどうでもいいであろう、ささやかな話だ。

トーマス・マンファウスト博士(下)』読了。読み終えてみて何を書こうかと思う。この巻は伏線の回収であり、通俗的といってもいい娯楽性がある。しかしネポムクの造形はさすがに大袈裟すぎるように思われるし、またシュヴェールトフェーガーの悲劇はほとんどメロドラマで、あまり自分の趣味ではない。なお、マンは本書の成立事情に関して『ファウスト博士の成立』という一書をものしているようだが、(よく知らないけれど)それは一種のアリバイ作りなのではないのだろうか。『成立』の中でマンは本書は「ニーチェ小説」であると述べているそうで、確かにアドリアン・レーヴァーキューンの生涯はニーチェのそれをそのまま(さらに言えば、本書の語り手であるツァイトブロームニーチェと同じ古典学者なので、むしろ二人で)なぞっていることは明らかだが、レーヴァーキューンの性格がニーチェとは天と地ほどもちがうこともまた明らかではないか。ドイツ精神の権化であらせられるマンに自分などがこういうのは滑稽ではあるが、マンはどれほどニーチェがわかっていたのかなどと思ってしまう。
 さらに、こういうことを言うのはあまり自分の趣味ではないが、本書の語り手であるツァイトブロームは、ナチ政権下の末期にドイツ本国で、絶望的な状況下でこの手記を書いているという設定だけれども、ナチ政権時はアメリカにいたマンが、どの面下げてそういう図々しいことができるものか、という紋切り型を想起することが、どうしても自分には禁じ得ない。これは実際に戦後マンに対して浴びせられた非難でもある。まあ自分などにはどうでもいいといえばどうでもいいのだが、マンという人は非常にエラそうにものを語る人なので、太い神経だなあとは思ってしまうわけだ。
 それからレーヴァーキューンの音楽についてであるが、本書の末尾にマン自身がその音楽理論として、シェーンベルクの(12音)音楽をそのままもってきたようにわざわざ断っているが、それはどうなのだろう。確かに12音技法そのままの理論的記述があるのは確かだが、自分にはどうも病的なまでの後期ロマン派の音楽のように見えて仕方がない。もちろん無調には進んだであろうが、12音技法ではレーヴァーキューンは満足しなかったようにも(勝手に)思える。さらに、本書ではレーヴァーキューンの音楽を評するのに「嘲笑的」という形容が多くなされるが、少なくとも僕には、シェーンベルクの音楽が嘲笑的であると思われたことは一度もない。そもそも、本書に協力したアドルノは、シェーンベルク系統の作曲家として出発したわけだが、アドルノシェーンベルクの音楽をそんなふうに思っていたのだろうか。
 しかしまあ、本書がとてもおもしろかったのもまたまちがいない。レーヴァーキューンの音楽にしても、「ファウストカンタータ」はそんなに聴きたいとは思わないが、弦楽四重奏曲や弦楽三重奏曲の描写を読むと、聴いてみたいという気がふつふつと湧いてくる。って当り前だけれど無理なわけだが(笑)。こうなってくると、ゲーテの『ファウスト』も再読してみたくなってくる。鴎外訳で読むなんてのもおもしろいかも知れないな。

しかし、冷静に考えるとマンの世界と自分の世界はあまりにもちがっているから、ああいうくそ面倒くさい世界が理解できなくても当然なのかも。何というか、大袈裟すぎるのだな。こういう部分が、自分はアジア人なのかなと思ってしまうところもある。どうも、毛むくじゃらの肉食獣じゃないと書けない小説みたいな感じ。つーか。
それから、西洋人の小説家は男性の同性愛、有り体にいえばホモが好きだね。まあいいのだけれど。『ベニスに死す』なんかは完全にホモだしな。『魔の山』もホモくさかった。