柄谷行人の講演集成を読む

曇。

シューベルトの「さすらい人」幻想曲 D760 で、演奏はスヴャトスラフ・リヒテル。おそらく普通に CD で入手できるリヒテルのスタジオ録音である。自分はこの曲が大好きなのだが、どういうわけだかポリーニの録音と、リヒテルのこの録音でしか満足したことがない。これは、それほど演奏者を選り好みしない自分としてはめずらしいことだが、どれだけ聴いてもそうなのである。この曲は圧倒的な技巧とリリシズムを兼ね備えた、ストイックなヴィルトゥオーゾにしか弾けない曲で、そういうピアニストとなるとポリーニリヒテルというわけだ。若い人ではエレーヌ・グリモーさんあたりに期待しているが、どうであろうか。ちなみに、リヒテルはいちばん好きな曲はこの「さすらい人」幻想曲だと言っていて、なるほどと思ったことがあった。

夕方、久しぶりにカルコス。久しぶりなので結構買った。外は爽やかな好天。

Ruby で描いてみました(参照)。

柄谷行人の講演集成を読んでいる。既読のものであるが、新たに文庫化されたので読み直しているわけだ。非常におもしろい。柄谷行人はどこか間違っている。柄谷は本書の最初の方の講演で、「それは構造にすぎない」という否定的な言い回しを使うが、それは正しいとしていいだろう。すると、本書の中に「構造にすぎない」論理が頻出することに気がつく。自分などが若い頃かぶれた、「共同体の間に立て」というのも、構造にすぎないであろう。というか、柄谷は共同体に属さないことは不可能であるから、不断にそこから脱出しつづけるというような言い方を好んでするが、それが構造にすぎないのは誰でも気がつくと思う。そして何が柄谷をそうさせるかだが、それに関係があるかわからないけれども、柄谷には隠された「仏教への強い生理的嫌悪」のようなものがあるのではないかと気づいた。例えば柄谷は本書で禅に対し数多い発言をしているが、その一箇所も肯定的に禅をとらえたものはない。「悟り」の理解についても、慎重にではあるが、結局はそれを実体化させてしまっている。禅の実体的理解は方便的にはあり得るが、本質的には不可能なことである。というか、逆にそれこそが「悟り」であろう。まあそれはよい。どうも柄谷の仏教嫌悪は骨絡みのようだ。
 などというから自分は柄谷をバカにしていると受け取られたら、それは正反対であると返そう。柄谷行人はじつにおもしろい。この人は哲学について語るが、自分は哲学者であるとは思わない。哲学者というのは例えば永井均のような人のことをいうので、自分にはあまり興味のもてない人種である。柄谷はまぎれもない思想家であり、思想家は現在はほぼ払底してしまった。柄谷以後、いまの日本人で大思想家といえるのは、わずかに中沢さんくらいのものであろう(というようなアナクロなことをいうから、自分はあんまり(というか全然)相手にしてもらえないのだが(笑))。柄谷のどこが間違っているのかなどと真剣に考えるのは最高の愉悦のひとつだ。自分が何者であってもである。
とまあ、まだ読んでいる途中なのですが、あんまりおもしろいので。