伊藤比呂美『切腹考』

休日(憲法記念日)。曇。

モーツァルトのディヴェルティメント ニ長調 K.136 で、指揮はユーディ・メニューイン。僕の好みとしてはテンポが速すぎるが、まあ好みの問題なのだろうな。

フォーレのレクイエム op.48 で、指揮はロバート・ショウ。この曲はもちろん名曲なのであるが、宮崎駿のアニメみたいなもので、自分が本当に好きなのかどうかよくわからないのである。いい曲だとは思うし、たぶん好きなのであろうが。この演奏は合唱の透明度が特に印象的。

ホームセンターでプランターを買ってくる。1186円なり。

ブラームスのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはアルトゥール・ルービンシュタイン、指揮はベルナルト・ハイティンク。高齢のルービンシュタインの迫力に唖然。ハイティンクも好きな指揮者であることを確認する。

クラウディオ・アバドが指揮した、ウェーベルン管弦楽集。既にアバドにとってはウェーベルンは特別なものでも何でもない。完全に古典になっているのを感じる。


本日撮影。憲法記念日だそうだで、色いろな意見をニュースやブログで耳にした。僕の整理するところでは、改憲というのも様々な立場に分かれる。ひとつは国民の主権を制限し、国家の機能を強大にしようというもの。そんなことを言う人間がいるのかと思われるかもしれないが、近ごろの自民党内にはこういう発言をするバカが少なくない。もちろんこれは独裁国家憲法にもまずあり得ないもので、言語道断の恥ずかしい発想である。この立場は無条件に却下できるが、本当に恥ずかしいものである。
 次は、軍隊である自衛隊の存在が憲法第九条と矛盾するから、第九条を改正すべきであるというもの。この立場を取る人は最近は多く、おそらく国民のかなりの部分、おそらく三分の一くらいはそうで、特に若い世代に多い。これは憲法と現実の整合性を重要視するもので、その意味では合理的であろう。
 三番めは、現行憲法は基本的にアメリカ人の作ったものであり、アメリカからの真の独立は自主憲法の制定しかないというもの。これは自民党の「党是」でもあるし、この立場を取る人も少なくない。ただしあまり知られていないことだが、「自主憲法」の制定というからには現行憲法の全体をこれと置き換えるということを含意するけれども、それは現行憲法下では事実上無理である。現行憲法の規定では、その改定は各条文ごと(第九条であればそれだけ)に行われなければならず、ゆえにこの立場であれば現行憲法を停止するという「非合法措置」を取らねばならない。それは一種の「革命」になる。
 この第三番めの立場に関して、日本は現在アメリカの「属国」であるから、それから脱するには自主憲法の制定しかないという論理があり、自分は左翼系の論者でこのロジックを採用する人を見たことがある。ひとつ事実を確認しておけば、日本がアメリカの属国であるのは、ふつうの人(?)が想像している以上にそうなのである。最近では鳩山首相のときに首相が日本のアメリカ従属から(密かに)抜けだそうとして、すべての官僚に裏切られたという事実がある。鳩山元首相は、そのことを体験してみるまで知らなかったそうだ。また、以前書いた自分の「証明」(参照)も参考にされたい。日本の対米従属は骨絡みのものである。ただ、別にそれでもいいであろうという人もいるだろうし、実際にいまの自民党アメリカの走狗であるから、自民党の党是もだいぶあやしくなってきたもので、おそらく自主憲法の制定にかこつけて、上の第一の立場を本音では採用していることになっている。そうでなければ、アメリカが対米自立としての改憲の立場を「許す」はずがない。
 ではお前の立場はどうであるのかと問われるであろう。僕はいま「売国奴」とも呼ばれきわめて評判の悪い「リベラル」に近い立場なので、一応「護憲派」といえるだろう。自主憲法制定でアメリカの属国から真剣に抜けたいという人たちには感銘を受けないでもないが、僕は自主憲法を制定しようがこの「属国化」からは当分抜け出せないと見る。ならば、バカどもに憲法を好きにさせるつもりはない。また、現実と憲法第九条の整合性を重要視して九条改正というのは、正直言ってどうでもいい感じ。国民のコンセンサスがあれば勝手にやったらいいだろう。ただ、九条を「改正」して「日本を戦争のできる国家にしたい」という人は、じつは結構いると思うし、それは自分は許容しない。
 僕は、国家は廃止できないにもかかわらず、邪悪な存在であると確信している(国家が我々の利益にならないというのではない。それゆえ、国家よりマシなものがないという意味で、国家は廃止できない)。楽観的に国家を信用する人間を信用しない。我々は、懐疑的に国家とつきあっていくしかない。それは「売国奴」であろうか?
 なお、付け加えておくが、現在日本を支配しているのは、ある意味で官僚である。政治家で対米従属している者も少なくないが、対米従属しているのはむしろ官僚の意識であるといえるかも知れない。国民には自らの対米従属をできるだけ意識させないようになっているし、アメリカもまたそれを強調しない。しかし、以上に書いたことは寝言ではないと確信している。しかしたぶん、官僚たちは何かあったらアメリカが必ず助けてくれるし、そうでなければならないと、素直に(何の根拠もなく)思い込んでいるのであろうな。ただ、フィリピンのような国でも(というのは失礼な言い方であるが)、対米従属から脱却して、対等なパートナー関係になったのだ。いや、フィリピンと日本ではアメリカにとっての重要度がちがうであろう(というのもフィリピンに失礼だが)という人もいるだろうけれども、日本並みにアメリカにとって重要であったドイツも、アメリカを激怒させつつも(本当にアメリカは怒ったのだ)、ねばり強く対米従属から脱却することを成し遂げたのだ。さすがはドイツ。

図書館から借りてきた、伊藤比呂美切腹考』読了。母から廻してもらった本。読み終えたらしんみりしてしまった。本書の後半は死の匂いが充満している。阿部一族は討ち死にし、著者の高齢の夫は弱って介護が必要となり、著者はおしっことうんこ塗れになり、そしてその夫は死ぬ。しぼみ切った夫のペニスを尿瓶に誘導し、おしっこがなさけなくも間欠的にぴゅっ、ぴゅっと出るのも描写してある。著者はこのところ詩は書いていないが、いまだに詩人だ、すぐに万象の本質を洞察してしまう。ところで、著者の夫が死ぬのと、著者の日本におけるホームグラウンドである熊本の地震はほぼ同時だ。本書全体で著者のこだわっている鴎外であるが、その遺言や、鴎外訳のクライスト「チリの地震」を著者は思い出す。さても、著者は自分の敬愛する「野蛮人」(これは褒め言葉)であるが、著者がこれほど鴎外に拘泥する(それは、鴎外の妻や恋人たちに嫉妬するほどだ)とは、鴎外もまた「野蛮人」というか、近代以前の精神の古層をふんだんにもった人間であったのかも知れないと気づかされる。こんな風に独創的に鴎外を読み込まれると、こちらにまでその鴎外観が伝染してくるな。自分はもともと鴎外が好きだったが、このような観点から読み直してみるのもおもしろそうだ。なお、本書前半にはゲラゲラ笑えるところも多々あり、そういうところも自分は好きである。

切腹考

切腹考