青野太潮『パウロ』

晴。

フランクのヴァイオリン・ソナタ。演奏はオイストラフリヒテル! 朝からすごいものを聴いてしまった。フランクにはこれくらいのスケールがないとね。しかし、ホントにいまではあり得ない類の演奏だな。もう「巨匠」が殆ど存在しない。

ベートーヴェンピアノ三重奏曲第七番 op.97。1974/1 Live. 演奏はこれまたケンプ、メニューインロストロポーヴィチというすごい組み合わせである。神々たちの動画に釘付け。特にケンプのピアノがあまりにも美しい。高貴なメニューインに、朗々としたロストロポーヴィチのチェロ。さすがにこれほどの室内楽の演奏はそうはない。最高でした。

青野太潮『パウロ』読了。これは非常におもしろかった。周知のことであるが、キリスト教を作ったのはイエスではなく、パウロである。キリスト教パウロの宗教であると言ってもいいだろう。パウロがいなければ、エルサレムを中心とするヘブライストたちの新興宗教として、パレスチナの一宗教として歴史から消え去っていたとも考えられる。著者は徹底的にパウロを読み込み、ふつうに言われている「イエスは我々の罪を贖うために十字架上で死んだ」とされる根本教義に対して、異を唱えてみせる。著者はパウロの主張として、「イエスはその弱さによって十字架上で刑死し、その弱さによって完全になるのだ」という発想を取り出してみせる。ここが極めておもしろいのだ。ここではその主張は完全に矛盾しており、その矛盾によって反駁不可能ものになる。矛盾は既に反駁されている存在であるがゆえに、反駁することは不可能なのである。これに比べれば「神の存在証明」など理性の遊びに等しく、何ほどのものでもない。このようなパウロの思想が根底にあるとするなら、キリスト教の「強さ」も理解できる。人間は矛盾的存在であるがゆえに、深遠な思想には矛盾を要求する。というか、矛盾がなければ、人間の全存在を覆うことはできないのだ。著者の主張は明らかにまったくオーソドックスではないが、ある点で人間の根底に触れているところを感じる。

パウロ 十字架の使徒 (岩波新書)

パウロ 十字架の使徒 (岩波新書)

ただ、著者が何をいおうとキリスト教は「強さ」を肯定し、「正義」を肯定する「立派な」宗教であり、あまりにも高みにありすぎるというところはこれからも変わるまい。その点が、自分のような凡夫には親しめない所以でもある。なんか、立派すぎるのだよね。
オーソドックスなキリスト教では、異教徒は例外なく救われることがなく、地獄に落ちることは確定している。まったく厄介な宗教である。