中沢新一『熊を夢見る』

昨晩は夕食後に寝てしまったので、深夜に起きる。

中沢新一『熊を夢見る』読了。自分のしているのは「(精神的)貧しさの実践」であるが、中沢さんを読むと、そればかりではいけないことをつくづくと実感させられる。ミイラ取りがミイラになってはいけないのだ。
 中沢さんによるダンテについての文章を読んで、自分もかつて「地獄」を見ていることを思い出した。あれはいま結局どういうことになっているのか。あれは無駄だったのか。自分はさらに自分の底にある岩盤を打ち砕くことを望んでいる。

熊を夢見る

熊を夢見る

無意識が激しく流動しているのを感じる。心が枯死してしまわないように、常に心がけておかねばならない。
それにしても、道は遠い。

夜、仕事。
 

ブラームスのピアノ協奏曲第一番 op.15 で、ピアノはボリス・ベレゾフスキー。ピアニストによるいわゆる「弾き振り」であり、指揮者はいない。こういう感想を抱くのは自分だけであるかも知れないが、ヒドい演奏だった。自分の聴きたいのは音楽であり、肥大したピアニストの自我ではない。また、誰もが思うと思う(?)のであるが、この曲を「弾き振り」するのは無理があるでしょう。テンポはどうしても一本調子になるし、細かいニュアンスはほぼ全滅である。もっとも細かなニュアンスというそれ自体が、このピアニストの苦手とするところなのかも知れない。終楽章の速いテンポは、ドライブ感があるというべきなのか、どすどすどすというバタバタしたリズムというべきか、自分はこういうのは音楽といわない。まあ聴衆のブラボー熱狂はわかるが、ひねくれ者の自分としては呆れた演奏というしかない。頑迷固陋な批評家よろしく、ブラームスがどういう気持ちで曲を書いたのか、想像してみてはいかがと言いたい。僕は、それが音楽の初歩だと思うのだけれど。どうしようもなく保守的な耳ですね。


シューベルトのピアノ・ソナタ第十九番 D958 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル