ハンナ・アレント『責任と判断』 / 小森敦司『日本はなぜ脱原発できないのか』

晴。

一日ぼーっとしていた。

ハンナ・アレント『責任と判断』読了。中村元訳。衝撃的なまでに読み応えのある書物だった。これまで自分はアレントについてあまりにもわかっていなかったなと思う。自分にアレントが解読できたとは思わない。能力不足であると感じる。しかし、アレントに関しては既に日本でもアカデミックな著作が汗牛充棟の有り様であるが、自分のような一般人でもアレントそのものを小説でも読むような感じでとにかく通読しておくべきであると思った。アカデミックな領域に閉じ込めておくのは、あまりにももったいない。一般人がアレントを読む上で気をつけておくべきであると思われるのは、アレントの言いたいこと、結論は何かということにあまりこだわらない方がいいということである。そもそもアレントは複雑な人であり、文章の最終的な意図がなかなか明確でない場合も多い。そうしたことは学者たちに任せておいて、我々はアレントがなぜその事実に目を留め、考察するのかということを気にした方がいいように思われる。例えば、アウシュビッツ関連の文章で、アレントがなぜナチスの「小物」たちにこれほどまでに拘泥するのか、ということ。このあたりの背景はきわめて複雑なので、そういうことに注意すべきである。アレントは明らかに、戦後告発されたナチスの「小物」たちの裁判で、ドイツ人は彼らを罰することに乗り気でなく、実際ほとんど罰せられなかったことに衝撃を受けているのだ。そしてその「小物」たち及び彼らが罰せられなかったことが許せなかった、それが基本的なアレントの感情としてあると思う。思索は、ゆえにその線に沿ってねばり強く行われ、けれどもそれがどこへたどり着くのかはいまひとつ不明である。そして、アレントが結論としたかったことはあるようにも思われるが、それははっきりとは語られていない。あとは学者たちの領域である。
 本書で解説者も述べているとおり、アレントは一般化というものを避けているところがある。というか、何にでも適用できる普遍的なものさしが失われたのが、現代であるという認識なのだ。例えば、「神」とか「道徳」「倫理」という普遍的な価値が失われたのである。その意味で、アレントニーチェをよく引用する。しかしまた、アレントニーチェとはだいぶちがう。アレントは常に事実性の領域と関係をもっているからだ。もちろん完全に確定された事実はないので、アレントは無謬ではない。しかし、その思索の粘り強さには感動的なものがある。我々が読むべきところも、つまりはそこであろう。以上、学術的には無価値無内容なことを書いたが、自分の率直な感想である。

責任と判断 (ちくま学芸文庫)

責任と判断 (ちくま学芸文庫)

個人的なことだが、カントの道徳哲学(『実践理性批判』など)はどうしても再読しておく必要があるようだ。あまり覚えていない…。

それにしても、人間の「自由意志」すら脳科学によって否定されようとしている現在、道徳・倫理というものはどこへ行くのか。そして「人間の尊厳」という概念が急速に無意味になりつつあるというのは、まさしくフーコーの予言どおりであった。もはやそのことに驚きすらない。一方で、無意味なまでの死の否定、社会全体のサニタイズ。生=快楽中枢の刺激…。驚くべき「楽園」の誕生ではないか。もちろん自分はこれを皮肉で言っているのだが、いちいちこうして付記せざるを得なくなっている状況である。

しかし、バックヤードは常に存在する。現在は階級社会であるが、それは「資本家」と「労働者」の対立ではもちろんなく、バックヤードから見て表側にいるか裏側にいるかのちがいである(そもそも表側からバックヤードの存在は不可視である)。そして、東氏などのいう「環境管理型権力」がその構造を強化する。まるで SF の世界のようだ。

小森敦司『日本はなぜ脱原発できないのか』読了。副題「『原子力村』という利権」。だいぶ前に母から借りた本だと思う。本書の書いていることで特に驚くようなことはなかった。日本人は腐っていると思う。それなのに、自分は何もする気がない。本書を読んでも、これが日本人の悪いところであると感じる。我々の多くは原発再稼働など言語道断と考えているだろうが、声を上げることをしない。自分も、面倒なことを敢てしようとは思わないのである。ただ、まだ東日本大震災による原発事故が収束もしていないのに原発を再稼働し、日本は安全ですとかいってオリンピックなぞやろうとか、自分には正気の沙汰とは思えない。何もしないけれど、ここでかかる意見表明だけはしておく。そして、時々は知識のアップデートだけはできるだけしておこうと思っている。それくらいしかやらない。カスといわれても仕方がない。

本書で多少興味深かったのは、本書を書いたのは朝日新聞の記者であるが(パヨク!)、東電と朝日新聞の癒着についてまで取材してあったことである。そしてそれは朝日新聞に掲載済みであるらしい。皆んなにとってそんなことは当然すぎて、話題にならなかったのであろうか。東電がマスコミにおいていちばんの難物であろう朝日新聞をターゲットにして共犯化していたとは、恐れいった話である。ここから見ても、原発問題の根がきわめて深いことを思わせる。

上の本とは直接関係ないけれども、国は事故を起こした原発の処理のロードマップ(経済産業省による解説)を出しているけれど、何年後かに行うことになっている溶け落ちた核燃料の取り出しについて、いまだにその方法が確定していない。そもそもそれは取り出すことが技術的に可能なのか、自分には疑問にも思われる(もちろん、常識的にそう思うだけで、確信などではない)。それから、どうも政府は、いわゆる「核のゴミ」を、深海に捨てることを考えているらしい。検索してみるとこれに賛成する論者も結構いるようで、彼らによると安全性には問題なく、自分の家の庭に埋めてもいいという人もいるようだ。じゃ、安全なら特に海に捨てる必要はないんじゃないの?(コンクリートは腐食するぜ) それこそ池田信夫氏の家の庭にでも埋めればいいんじゃない? もーどーでもいーけど。