ジャック・デリダ『他の岬』

日曜日。晴。


シューマンのピアノ協奏曲 op.54 で、ピアノはハワード・シェリー(たぶん指揮も)。速めのテンポの、切れ味の鋭い演奏。第一楽章は自分にはせわしない感じで、多少否定的に思えるが、簡単に切り捨てられる演奏ではない。終楽章は演奏スタイルが曲に合っていて、かなりすばらしい出来。最後はブラボーを叫びたくなるくらいでした。自分はこの曲は、第一楽章よりも終楽章の方が好きなことにあらためて思い至った。グールドにいわせるとシューマンは大作曲家の中ではもっとも「小さい」そうで、彼はバカにしていたが、自分も確かにそうだなとは思っていたけれど、やはりそう簡単なものでもない。ふつう(?)の作曲家と領土の位置はだいぶちがうけれど、シューマンの射程もまた大きい。そうであるかと思いました。そして、音楽に幻想をはっきりと意識的に持ち込んだのは、シューマンなのである。


フォーレの「小ミサ曲(Messe basse)」で、指揮はジョン・ラター。


ドビュッシーの「映像」全曲で、ピアノはパスカル・ロジェドビュッシーの定番であるパスカル・ロジェだ。ようやく第二集がわかってきた感じ。

図書館から借りてきた、ジャック・デリダ『他の岬』読了。高橋哲哉鵜飼哲訳。2016年出版の新装版である。みすず書房はどうして新装版を出す気になったのかね。デリダがヨーロッパというものを論じた本書が、依然アクチュアルであると考えたのか。もちろんそうであろう。原著の出版は1991年、いわゆる湾岸戦争の勃発時においてである。まあ何というか、自分にデリダがわかるわけはないのだけれど、それはたんに自分の頭が悪いだけで、デリダがここでそれほど中身のあることを言っているわけではないことも明らかだ。だから自分は、本書が本書の惹句にある今日の「必読書」であるとはあまり思わない。とにかくデリダは慎重すぎて、自分のようなバカには語り方がクソ面倒なのである。もちろん深いことも言っている(のだろう)が、言葉遊びを多用し、簡単なこともじつに面倒な語り方をする。だからデリダを読むというのは、とりあえず内容を考えるよりも、デリダのクソ面倒な語り方からデリダの言いたいことを救ってやるという作業になる。その向きには、新装版に加えられた國分功一郎氏の解説は大いに参考になることだろう。この人はやはり優秀で、しかもちゃんと中身がある人だから、大したものだと思う。さてもともかく、本書が刺激になることは確かだ。このところ、ものを考えさせるような文章にはなかなか出会わないからね。けれども、既にデリダよりももっと読まれず評価もされないレヴィ=ストロースの方が、自分にはさらにおもしろくさらに充実した中身を感じさせるのは、どうしようもないことである。わたくしは、ふるくさい書物とともに滅びていくことに致しましょう。

けれども、ちょっと若い頃のデリダがまた読みたくなってくることも確かだな。ネットの見過ぎでふやけたのーみそに、もう少し刺激をやりたいなとか。

傲慢で滑稽だなあ、わたくしは。

夕食後、寝てしまう。真夜中に目覚める。

ハンナ・アレントの『責任と判断』を読んでいるが、とてもおもしろい。本書は雑文集である。アーレントの肉声が聞こえてくるようなところがある。アーレントの政治哲学、道徳哲学そのものは自分の扱い得るようなものではなく、それは優秀なアカデミシャンにでも任せておけばよい。自分がおもしろいと思うのは、アーレントの複雑さである。それはその政治哲学、道徳哲学においてもであるが、そもそもその個性が複雑なのだ。自分などには、そちらの方がおもしろい。それに関してまず思うのは、アーレントを真の哲学者にしたのは、まさしくユダヤ人としてのナチズム体験だったということである。もちろんアーレントハイデガーの(齢の離れた)若き恋人であったことでもわかるように、若い頃からきわめて優秀で将来を嘱望されていたわけだが、それでもアーレントアーレントたらしめたのは間違いなくナチズムであった。そして、そのハイデガーナチスに積極的に加担したということ。本書の中には、ハイデガーナチスに対する態度を念頭にした文章が、あきらかに存在すると思う。
 そしてアーレントはまた、きわめて孤独な思索者であった。ヤスパースだかが言っていたと思うが(定かでない)、アーレントは自分のために考える人であった。彼女の残した文章は多いけれど、本質的にはそれらは彼女自身のために書かれたと言ってもいいと思う。そこが、彼女の複雑なところである。本書には、無名であること、思索者が隠れて生きることの当り前さについて述べた箇所がある。アーレントは無名人どころではなかったわけだが、彼女の心情として、隠れて生きたこともまた真実なのではあるまいか。ヤスパースの言っていることは、それにも関係していると思う。何にせよ、おもしろい。続けて読もう。