荒川洋治『過去をもつ人』

晴。
ものすごく寝た。風邪だいたい治った。

ゆたさんがリンクしておられて知ったのだが…
障害者が施設で働いていくらもらえるか知らないけれど、これはひどすぎる。国はどうしてこんなひどいことができるのか。障害者が生きられないようにするとしか言い様がない。

これに関して

障害者の昼食代、全額自己負担に 通所施設で厚労省:朝日新聞デジタル

メシ代くらい自分で払えよ。社会保障は揺り籠から墓場まで面倒見る制度じゃねぇよ。

2017/11/30 08:25
ってコメントしている人がいた。マジで言っているのだな。まあこういう人には言ってもムダだが、障害者って何か知らないといっていい。スターつけているバカもいるし。

しかし障害者を最低賃金以下の時給で働かせてさらに昼飯代も出せないなんて、おかしな国だな日本は。というか、もはやそれくらいの余裕もなくなり、さらに障害者の優先度が低いということなわけだな。終わっているな。


モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ ト長調 K.301 で、ヴァイオリンはヒラリー・ハーン、ピアノはナタリー・シュウ。えっ、もうおしまいという感じ。一時間くらい聴いていたかったのに。


ということで、フルアルバムが上がっていたので聴いてみた。モーツァルトのヴァイオリン・ソナタ K.376, K.301, K.304, K.526 で、ヴァイオリンはヒラリー・ハーン、ピアノはナタリー・シュウ。いや、一時間以上聴くと大変ですよ。モーツァルト、巨大すぎる。


バッハのフランス組曲第四番 BWV815 で、ピアノはマレイ・ペライア

いまペライアのバッハを聴いていて、昔の個人的なことを思い出して感慨にふけっていたのであるが、あらためて思うと、当り前だが「想起」というのは現在の行為だよね。自分が思い出していた光景はその当時は自分に何とも思われていなくて、いまにおいて勝手にそれに感情を付与しているのだから。というか、ベルクソン的「持続」の立場からすれば、「過去」は存在せず(同様に「未来」も)、存在するのは現在のみであるから、それは当然なのである。しかしそこに、「過去の事実性」というものを持ち込むと話は変わってくる。過去における事実とはいったい何であるのか。ここに、徹底的に「過去の事実性」というものに拘泥した大岡昇平というような作家を持ち出してくると、その異様さがわかると思う。「過去の事実性」は自明どころか、まだ哲学的に(でなくてもよいが)考え抜かれていない、きわめて未熟な概念と言わざるを得ない。そもそもそうでなければ、「南京大虐殺」事件とか「韓国朝鮮人従軍慰安婦問題」が紛糾するなど、あり得ない話であろう。そういうことなのである。

それはまた、ベルクソン的「持続」が理解されていないがゆえでもあろう。そんなものなのですな。

「過去の事実性」ということを一旦問題にしてしまえば、「そもそも過去など存在するのか」ということは既に言えない。言えなくなってしまうのである。そうすると、その「過去の事実」はどこまで確定できるのか*1、ということになる。大岡昇平の作業を見ても、それに終わりはなく、無限に更新されるということになる。つまり、じつは「事実の確定」はあり得ないということになる*2。つまり、「過去の事実性」をと問うと、それが究極的には「存在しない」ということになる。しかし、多くの場合において「過去の事実性が存在しない」ということは倫理的に許されないことがある。それは矛盾し、そこに紛糾の種が存在する。厄介である。それはそこに一種の倫理性を要求するからである。それを避けることはむずかしい。大岡昇平の場合はある意味でそのような倫理性は直接は問われていないように見えるが、さてどうであろうか。少なくとも大岡昇平は、「過去の事実性を(可能である限りにおいて)無限に更新する」という道を選択しているようである。そのような道は、現実問題としては取り得ない場合が多いだろう。

「過去」は我々の記憶の中にしか存在しない、現在である。「過去の事実性」は現在における物質的存在である。いずれにせよ、「過去」は存在しないのだが、「過去の事実性」を問題にする限りでは、そういえないのは上に記したとおりである。ベルクソンには『物質と記憶』という題の書物があるのだが…。

それにしても、物理学的時間からすると奇妙なしかたで我々の精神が時間を認識しているというのは、どうも不思議な感じがする。精神のトポロジーの次元は、物理学的次元と異なるといわざるを得ない。一方で、我々が因果律を理解するというのは、それからすると却って奇妙に見える*3。いやはや、わたくしはまだまだ迷える未熟者である…。

しかしゆたさんのコメントを見たりして思うが、自分がカスであることを自覚し、その視点で世の中を見ざるを得なくなってみると、色いろといままで見えてこなかったことが見えるようになったと痛感するよ。おまいらの中にもカスがいるかも知れないが、意外とその視点はおまいしかもっていない貴重なものかも知れないよ。それにしても、健常者とかいって、お前の考え方のどこが健常なんだよと思わされたりすることが多すぎる。精神病者にそんなひでー奴はめったにいないよ。それが正しい事実現実。

pha さんがいっていたな。自分は他人の気持ちがわからない人間だと思っていたけれど、他人の気持ちがもっとわからない奴をいっぱい見てきたから、いまでは自分は他人の気持ちがわかる方なのかもと思うようになったと。いうまでもないが、pha さんもまた世間で「ふつう」といわれている生き方のできなかった人である。でもまた思うけれど、世間で「ふつう」といわれる生き方をしている「まとも」な人でも、押しつぶされそうになっている人がたくさんいるのだよね。あーあ。そういう人で、もうダメで死のうと思っている人は、是非「ドロップアウト」する勇気をもって欲しいと思う。たぶん、悪いのは(あなたが思っているのとはちがって)あなたなのではない。だから、いま死ぬことは意味ない。どうせ人間の致死率は100%なのだけれど、もう少しあとで死ねばいいと思う。

何でいまやこんな世の中になっているのかな。

夕方、図書館。寒い。

図書館から借りてきた、荒川洋治『過去をもつ人』読了。きれいな文章で書かれている。心の濁った自分には、どこがいいのかさっぱりわからない。余計なお世話であろうが、荒川さんは、インターネットのどす黒い世界を知った方がよいように思う。砂漠が猛烈な勢いで広がっている現実に、目を向けた方がいいと思う。というのは書いてみただけで、まあ何というかね。荒川さんの文章で「文学」に開眼する人がいないとはいえないから、上に記した如く、余計なお世話でしかないのだが。

過去をもつ人

過去をもつ人

しかしこれを読んで黙っておれないだけ、自分はまだまだ未熟だと思う。

先ほどもはてブの様々なコメントを大量に読んで、心底ウンザリしたところである。しかし、はてブが最悪というわけではないのだけれど。ツイッターは最近慣れてきたので、もう飽きてあまり見ないようになっている。もはや腹が立つことはあまりないようになった。ツイッターで時間つぶしをするくらいなら、寝る。

ネットはよくも悪くも「大衆」を可視化した。そもそも「大衆」が誕生したのはそれほど前のことではないが、いまになって我々は否応なくそのリアルな姿をこの目で見ることになった、というわけである。このブログもまた、ささやかながらそのサンプルのひとつであると言える。

シュニッツラーの自伝を読む。

*1:ここでは一応、「事実」は「ナラティブ」によって確定する、としておこう。

*2:現実問題からするならば、あるレヴェルまでの「事実」がわかっていればよい、ということはあるだろう。つまりは、それで充分である、すべての「事実」を確定させる必要はない、と。現実的には、そこいらの話で済むことがほとんどだろう。

*3:つまりそれは、精神のトポロジーが物理学的時空よりも高次元であることを示しているのだろう…。