諏訪哲史『うたかたの日々』

日曜日。晴。


ブリテンの「ピアノのための12の変奏曲」(1931)で、ピアノはスティーヴン・ハフ。


ブラームスのピアノ・トリオ第二番 op.87 で、ピアノはユージン・イストミン、ヴァイオリンはアイザック・スターン、チェロはレナード・ローズ。


ハイドン交響曲第九十四番で、指揮はレナード・バーンスタイン

近所の回転寿司「はま寿司」にて昼食。いつもたくさん車が停まっているので、どんなものかと入ってみた。別にそんなにおいしいわけではなかったけれど、ひたすら安いですね。だから皆んな来るのかな。家族で山のように皿を積み上げているテーブルなどもあった。ただ、自分なら近所のつけ麺とかの方が満足できる感じ。あと、回転寿司なら「スシロー」の方がもう少しうまかったような記憶があるが、定かではない。まあ、一度行ってみたかったのでよしである。

僕はもう量が食べられないので、安くてたくさん食えるみたいな店はもはやあんまり意味ないなと思った。

図書館から借りてきた、諏訪哲史『うたかたの日々』読了。母から廻してもらった本。全体的に楽しい本の筈である。しかし、読んでみて悲しい気分になった。諏訪さんは名古屋出身、名古屋在住のマイナーな作家(しかし芥川賞受賞者ではある)で、齢は自分のひとつ下。諏訪さんは幼少期の思い出をよくエッセーに書かれるが、だからその感覚があまりにも自分と近い。そして『スワ氏文集』や本書所収のエッセーの多くが朝日新聞名古屋版に連載されたこともあり、下らぬも楽しき地元ネタが満載。まあ脱力して楽しめばよいのだが、ちょっと面倒なことを書けば、諏訪さんの地元ネタには「中部地方人性」とは何かを問わせるような、何か根源的なところがある。「中部地方人性」などと書いたが、自分がわかるのは名古屋や岐阜の人間だけで、そう、自分は以前から、彼らには何か負性をもった特徴・特色があるように感じられていた。今回諏訪さんの(全力投球された)下らないコラム記事を読みながら、それは「コミュニケーションに対する不信」のようなものではないかと多少言語化できた気分である。愛知や岐阜の人間には、どこか「人懐っこい」ところが乏しいような気がする。諏訪さんのコラムにそういうところはなく、むしろその正反対の感すらあるが、どうも自分は諏訪さんのおかげで自分の中の「中部地方人性」の地層にたどり着いたようだ。自分には、どうも諏訪さんはタダモノではないのである。
 それにしても、悲しい読後感であった。躁鬱病を患いつつ、諏訪さんは全力投球でふざけておられる。最後の方の時局に対して悲愴であるところは、自分にはあまりにもファナティックな感じがして肯定しにくいが、このひとがあまりにもマジメな人、不器用な人であることは明らかではないか。僕は下らぬ人間であるが、こういう人を茶化す気にはなれない。マイナーを運命づけられたような人であると思わずにはいられぬ。なお本書は、名古屋の地方出版社である風媒社から刊行されている。

うたかたの日々

うたかたの日々

よく名古屋は行ってみたくない都市ナンバーワンだったりする、魅力も個性もない大都市であるといわれる。自分は、そのことは上に書いた「中部地方人性」の性格と関係があると思っている。愛知や岐阜の人間にも、愛想があまりよくなく、個性もなく、魅力的でもない、そういうところがあるように思える。しかし自分は、そのことを糾弾も自虐もするつもりはないし、そもそも「中部地方人」はみずからがそんなことだと思っていない筈である。我々はつまらない人間であるが、つまらない人間だとは思っていない。その筈である。自分は、それになにかポジティブな意味すらあるのではないかと夢想している始末だ。我々はナチュラルに、東京人にあまり憧れていない気がする。それはもしかすると、日本では我々だけではあるまいか?