オリヴィエ・ブロック『唯物論』

曇。起きたときは時雨れていた。


モーツァルト弦楽四重奏曲第十五番 K.421 で、演奏はエマーソンSQ。どうやらエマーソンSQ の「ハイドン・セット」がすべて You Tube に上っているようだ。これは嬉しい。


ベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番 op.73 で、ピアノはスティーヴン・ハフ、指揮はアラン・ギルバート、ニューヨーク・フィル。これはすばらしい! この曲は聴きすぎてもうめったに聴く気がしないのだが、聴いてみるとやはり超カッコいい。ピアノも指揮も最高ですね。ピアニストのハフは知っていたが、指揮のアラン・ギルバートという人は知らなかった。いま NYPO の音楽監督なのだな。この演奏のすばらしさの半分はギルバートのおかげだろう。ハフのピアノは正攻法で真正面からこの曲にぶつかり、最高の結果を得ているというものである。いやあ、聴いてよかった。


シューベルトのピアノ・ソナタ第十四番 D784 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルリヒテルのこの曲の演奏はやりすぎだといつも思うのであるが、つい聴いてしまう。これより深い演奏がないからだろうな。

昼過ぎから県図書館。帰りに図書館の隣のミスタードーナツ バロー市橋ショップに寄る。メープルエンゼルフレンチブレンドコーヒー。今朝の新聞に出ていたが、ミスドはやはりだいぶ売り上げを落としているらしい。軽食メニューを増やすと出ていた。コンビニのスイーツなどに押されているのだな。理解できるところである、って僕はコンビニのスイーツを食べたことがないおっさんですが、なかなかのものらしいですね。自分の好きなものがどんどん落ち目になっていくわたくしでありますけれども、ミスドは自分には居心地がよいので頑張って欲しいものである。
ミスドでは文庫クセジュを読んでいた。


図書館から借りてきた、オリヴィエ・ブロック『唯物論』読了。新書版の入門書というよりは、本格的な哲学史に近いというべきであろう。おおよそは自分の能力を超えるので、思いつきだけを少し書く。というか、自分のことなのだが、自分は敢て分類すれば、唯物論者ではなく、ふるくさい心身二元論者であろうと思う。物理学を学んだ人間が唯物論者ではないのかと思われるかも知れないが、むしろ物理学を学んだゆえであるような気がする。というのも、最先端の物理学はきわめて抽象的であり、そこには物質のリアリティなどかけらもなく、常人には到底理解できそうもない極度に抽象的な数学で書かれているからだ。だから、むしろそれはほとんど観念論の世界に近いのである。そこにあるのは、モノというよりはコトなのだ。そういう次第である。
 むしろ、脳科学者などが現代における唯物論者であろう。自分も脳の物質的状態と精神の状態が密接に関連していることははっきりと認める。アルコールや薬物で、精神の状態は簡単に変わるからだ。しかし、脳の物質的状態が意識を生み出しているのか、これは自分には正直言ってわからないというしかない。つまりは、物質は思考しうるかということである。それには特に自分の意見があるわけではないが、物質が数学を考え出したのかと考えると、不思議な気持ちになってしまうのである。もちろん心身二元論は「思考」を例えば「魂」で置き換えただけで、何の説明にもなっていないという批判はよくわかる。だから、自分の考えは曖昧なものである。これはたぶん、30代の頃から変っていないと思う。
 それから、物質は自己組織化をするのかということがある。しかしこれは、あり得ないことではなかろう。最近ではさっぱり言わなくなったが、オートポイエーシスという考え方はいまだに魅力的だ。
 それにしても、これだけ分子生物学が発展しても、人間の力で化学物質を組織化して0から生命体を創り出せていないのは不思議な気がする。これが可能になれば、自分も唯物論者になるかも知れない。しかし正直言って、人間がそこまでやってもいいのだろうかという気持ちは残る。けれども、科学がその目的に向かっていくことは誰にも止められないだろう。
 そしてあとは、近年急速に発展してきた AI 技術である。本書では当然ながら、この問題はまったく扱っていない。AI がある意味で「思考」することはすでに疑う人はいない。もはや人類の誰も Alpha Go に囲碁で勝てない。音楽や小説すらも AI に作らせようという試みすらある。しかし AI が「思考」するというのは、いまのところ AI が「思考しているようにしか見えない」ということでもある。さらに言って、AI に自由意志をもたせることが可能なのか。尤も、最近の脳科学にあっては、人間に「自由意志」は存在しないという考え方が既に異端ではない。こうなってくると、もはや何が何だかわからなくなってくる感じである。いずれにせよ、我々が社会生活を送っていくには、人間が自由意志をもつと見做してやっていくしかない。何だかもうどうしようもないというか。
 しかし、例えば「観念論者である AI」というものが存在できれば、「唯物論」の勝利となるような気もするな。もう、自分にはどうでもいいですが。

唯物論 (文庫クセジュ)

唯物論 (文庫クセジュ)

それから本書を読んで気づいたのだが、マルクスエンゲルスのいわゆる「史的唯物論」というのは、その「物質」というのはじつは「社会」なのである。その意味で、物理学的な意味での「唯物論」ではない。
 もうひとつ。本書では唯物論無神論の間の関係がほぼ無視されている。この点では、やはり林達夫は鋭かった。唯物論者は必ずしも無神論者ではないが、無神論者はすべて唯物論者であると林達夫は言っていたと思う。それを敷衍すれば、東洋思想で唯物論が重要でなかったのは、ユダヤキリスト教的な意味での「神」が存在しなかったからであろうとは、言えるような気がする。