小林信彦『女優で観るか、監督を追うか』 / 高橋康也『サミュエル・ベケット』

曇。
何だか端まで来た感じで早起きする。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第十六番 K.545 で、ピアノはダニエル・バレンボイム


モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 +アンコールで、演奏はエマーソンSQ。すばらしいモーツァルトで、いうことなし。で、アンコールがハイドンベートーヴェンなのだが、よほど興が乗って弾きたかったのであろう、ベートーヴェン(ラズモフスキー第三番のフィナーレ)がすごい演奏。こんな演奏は滅多にあるものではなくて、集中力と迫力が圧倒的である。聴いていてどこまでいくのだろうと思った。たぶんエマーソンSQといえどももこれほど高揚することはあまりないのではないか。もちろん演奏終了後は破れんばかりの拍手だった。ちなみにこれは日本での演奏会ですね。


ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はシネ・ノミネQ。エマーソンQのベートーヴェンを聴いて高揚させられたので、ベートーヴェン弦楽四重奏曲の中でいちばん好きなこの曲を聴いた。シネ・ノミネQはよく知らないけれど、これ名演といっていいのではないか。見事な演奏だったですよ。


シューベルトの「華麗なるロンド」D895 で、ヴァイオリンはアドルフ・ブッシュ、ピアノはルドルフ・ゼルキン


フランクのピアノ五重奏曲で、ピアノはクラウディオ・アラウ、ジュリアードSQ。

昼過ぎ、ミスタードーナツ バロー各務原中央ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー。小林信彦のエッセイ集を読む。これを読むのは本当にいい気持ちだ。自分が映画もテレビドラマも見ないのが残念なくらい。映画が好きという人に、頭でっかちの人は少ないように感じる(蓮實重彦氏はどうなのか知らないが)。しかしこれを読んでいて、大瀧詠一さんが亡くなったあとの話はさみしい。僕は大瀧さんのそれほどコアなファンではないけれど、山下達郎とか細野晴臣とかいう人たちの音楽にずっとつきあってきた人間として、小林さんの気持ちは推測できるところもあると思っている。それにしても、自分にどうして小林さんが好ましいのか、よくわからないところもある。僕は川本三郎さんなどは苦手なのだが。不思議だ。まあ、本物だからとかいってしまえば身も蓋もないのですけれど。

図書館から借りてきた、小林信彦『女優で観るか、監督を追うか』読了。まったくどうして自分にこの本が読めるのかわからない。知っている話はまるでないし、本書を読んでも映画を見ようとも思わないのだが。しかし、自分のまったく知らない人名ばかりが鏤めてある文章を楽しく読んでしまう。

 

高橋康也『サミュエル・ベケット』読了。以前から高橋康也氏は読みたかったのだが、まとまったものを読んだのはこれが初めてのような気もする。うわさどおり、知的とはかかるものをいうと申すべき、ハイレヴェルな文学評論である。というか、わかった風なことを言ったが、はっきり言って自分に本書を充分に読み解く力はない。文学を読み解く最高の能力と、最高の教養を必要とする難物であり、現在本書を読み解ける人間が日本に何人いるか、心もとない気がする。こう言ってはまことに失礼であるが、いまの若い人にはまず無理とすら思われる(そうでなければ最高だ!)。というか、ちんぷんかんぷんでおもしろくも何ともないか、何か小むずかしいことをごちゃごちゃ言っている、面倒くさい文章だと思われるのではないかと、またしても失礼ながらわたくしには思われてしまう。ちなみに、本書の宇野邦一氏による解説すら、内容の乏しいうわごとであるくらいであるるるるる。もちろん自分など、それよりも遥かに比較にもならず劣ることであろう。
 という具合に無意味なことを書いたが、本書が華麗にも知的な果実であることは完全に認めるものの、正直いうと文章があまりにも大袈裟すぎるとも、自分にような人間には思われる。何というか、著者に教養がありすぎて、おそるべくもペダンティックなのだ。わたくしの乏しい知識では、いかんともし難い。それでも、ベケットがほとんど無の材料から、苦労してほとんど「中身のない」文学を構築していったその歩みは、本書によりじつによくわかる。自分は、例えばジョン・ケージの「音楽」を思い出したりする。「中身のない」という、そのことを「表現」することにより、その「中身」の本質をありありと炙りだす手法というか。それにより、「文学」は根本から問い直される。むしろそれにより、「文学」は延命すらされてしまったのだ。しかし高橋康也氏は(当然にも)指摘していないが、例えば現代日本にあってきわめて幼稚な洪水的量のなにものかが「文学」を乗っ取ることにより、ベケットその他が何とか延命させてみせた「文学」が、ついにその役割を終えたという事実がある。これは、もしかしたらベケットも、そして高橋氏も予想しなかった展開だったかもしれない。いっておくが、自分はいまさらそのようなことを嘆いたりはしない。ポストモダンには、ポストモダンの戦略がある。ちなみに、誰が何といおうとも、現代が相変わらずポストモダン的状況のままなのは紛れもない、と蛇足ながら注意しておこう。それからさらに蛇足しておくと、本エディションの出版は一種の奇跡である。ちくま学芸文庫あたりが追従して欲しいものだ。