伯母の顔を見て、それから「長沢芦雪展」

晴。
用事があるので早起き。攻殻機動隊のように、脳をコピーする夢を見る。それをインスタンスと呼んでいたのがプログラマたるわたくし(笑)。


バッハのブランデンブルク協奏曲第五番 BWV1050 で、ピアノはマレイ・ペライア

母を乗せて名古屋まで伯母の顔を見に行く。伯母はもう90歳近くで認知症を患っており、名古屋市内の老人ホームで暮らしているのだ。カーナビ頼りで名古屋市内はなかなか面倒、渋滞で連絡した時間より多少遅れてしまう。しかし、伯母は思っていたより元気だった。母(伯母からしたら齢の離れた妹である)のこともすぐわかったし、甥(わたくし)も最初はちょっとわからなかったようであるが、それはこちらも齢をとったせいで、あとではしっかり認識してくれた。近くの喫茶店でコーヒーを飲みながらしゃべったが、「もう生きていてもしょうがない」とかは言うものの、まあそんなのは決まり文句なので、体はよろよろながら目も耳も達者、僕ははやく嫁をつれてこいとか言われた(笑)。「おじいちゃん(伯母の父、つまり僕の祖父)死んじゃったの、私お葬式行った?」とかは言っていたけれど、これなんかちょっと愛嬌があって可笑しい。まあ充分ですよ。あちらの家族の複雑な事情もあるが、それはあまりかかわりたくないし、我々としてはホッとしました。しかし、齢をとるというのはむずかしいな。自分なども考えてしまう。
 伯母と別れ、そこから歩いていけるコメダコーヒーで昼食。街の中の小さな古いコメダコーヒーで、おそらく夫婦で長いことやっているのであろう。僕はカツサンドを食ったが、他のコメダと同じでうまかった。
 街路樹が色づいてきれいである。
 そこから愛知芸術文化センターへ。愛知県美術館の「長沢芦雪展」を見る。僕は長沢芦雪はよく知らなかったのだが、正直言ってそれほどの画家とは思えない。師匠の応挙の作品も多少展示してあったが、明らかに応挙の方が比較にならず上だ。特に僕は芦雪は技術、西洋絵画でいうデッサン力*1がないと思う。細かい筆の技術にも乏しい。だから大雑把な(いわゆる「豪快な」)画風になる。そもそも鳥は足をみればわかるが、はっきりいってダメだ。「応挙よりうまく、若冲よりすごい」なんてのはお話にならないので、そういうのは若冲の鶏を見たことがあるのだろうか。って若冲の鶏と言ったのは母だが、まったくの同感である。
 って思いっきり貶したけれど、これも正直言って絵を見るのは楽しい。母は「ユーモラスなのはいい」と言っていたが、確かにそういうところはある。技術のなさをごまかしているようなのはダメだが、あ、これは悪くないなというのも結構あった。しかし、僕にはどうして重文になっているかわからないのもいくらかあったけれど。何でも評価すればいいってものでもないと思う。
 人は結構きていた。これなら盛況といえるくらい。高校生の団体も見かけたが、若いうちに本物を見ておくのは非常に重要で、どうせわかんないにきまっているがそれでいいのである。これは自分も痛感していることで、高校生くらいの頃のは確実に記憶に残るのだ。
 帰りの国道22号は混雑していたわりにスムーズだった。

*1:あるいは「形態把握能力」といってもいいだろう。日本画はキャンバスにデッサンしない分だけ、この能力が却って強く効いてくるくらいである。それゆえ、芦雪の個物は応挙に比べどこかゆがんだように見える。特に気になるのは、人の顔の醜さである。僕はこれは、敢て醜く描いたのではないと思う。