鈴木道彦『異郷の季節』 / 伊勢崎賢治&布施祐仁『主権なき平和国家』

晴。
おもしろい夢を見た。いま自分は転換期なのだなと思う。


ブラームス交響曲第四番 op.98 で、指揮はベルナルト・ハイティンク、ヨーロッパ室内管弦楽団ハイティンクは自分の気質にもっとも合った指揮者のひとりだ。この演奏でも、オーソドックスであり、誇張はまったくないが、ここはこうであって欲しいというところが、すべてそうなっている。過不足なく、聴いていて満ち足りた思いだ。オケもよく集中していると思う。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十三番 op.57 で、ピアノはラン・ラン。八割の力で弾かれた「熱情」ソナタだ。ラン・ランはまるでアスリートのように、綿密にペース配分を考え抜いている。そりゃ超人気ピアニストだから、毎日全力を出していてはもたないよね。まあ、二三箇所悪くないなと思ったところはあったし、決して得るものがなかったわけでもない。しかし第二楽章など、どうしてそんなに低音を強調するのか。そりゃその方が圧力は感じるが。とにかく人気ピアニストですよ、ラン・ランは。この演奏でも、終った途端に聴衆の熱狂的な「ブラボー!」の声。ごちそうさまでした。ちなみにラン・ランの美質を挙げておくと、この人は抒情的表現に優れている。才能あるピアニストであることはまちがいない。


 

シューマンの幻想小曲集 op.12 で、ピアノはベンノ・モイセイヴィチ。あまり技術的に冴えがあるピアニストとも思えないけれども(いや、よく知りません。Wikipedia には「超絶技巧」とある)、悪くない。1952年の録音ということだが、ノイズ除去技術のおかげで充分クリアに聴こえる。そういや、シューマンを聴いたの、ひさしぶりだな。
(※追記 検索してみるとモイセイヴィチは技術は確かだという言及が多い。そうなのかも。自分にはこの程度はいまなら普通だと思われるのだが。)

よき秋の日だ。昼からミスタードーナツ バロー各務原中央ショップ。自分用にはポン・デ・リング+ブレンドコーヒー。持ち帰りでドーナツ六個。割引券があったのである。ここのミスドに来るのもあと何回だろうか。テーブルにつかえてコーヒーを少しこぼしてしまう。鈴木道彦を読む。鈴木はプルーストの訳者としてしか知らないが(しかし読んだことはない)、柔軟な文体で読ませる文章家であることを発見する。鈴木のパリ留学中は政治の季節であり、偶然と気質のしからしむるところであろう、アルジェリア人活動家と親しくなったりという留学生活が興味深い。本書の文章を執筆しているときの著者の年齢はいまの自分より多少上というくらいで、しかし既に語り得ることをたくさんもっている。

ぼんやりと運転しながら(あぶないね)スコット・ロスの弾くバッハを聴くともなしに聴く。

図書館から借りてきた、鈴木道彦『異郷の季節』読了。これがプルーストの翻訳者なのか…。驚きとともに読了した。著者は骨の髄まで仏文学のある面を血肉化した。本書の文体からは香気さえ漂うような柔軟な知性が感じられるが、それにしても本書の文章で政治と関わらないものはひとつもない。著者は日本における仏文学者であるが、みずから日本における或る政治状況に深くコミットしたらしい。本書ではそのこと自体は詳しく語られないけれども、フランスの知識人たちに対する著者の態度は、徹底的に自分のこととして捉えられ、決定されている。いわば、政治が自分のこととして、考え抜かれているのであり、そのような目から見たフランスの知識人たちは、本書の中で圧倒的に生々しい像を結ぶ。例えばブランショ。自分はブランショは数冊読んだだけであり、中身もまったく覚えていないが、「無名人としてのブランショ」と同じ空間を一時共有した著者の筆のおかげで、ブランショを読み直してみたいという気になった。サルトルもまたそうである。そして、本書で著者が親しく交わるピエール・ナヴィル。自分はこの人をまったく知らないが、「早すぎた旅人」に描かれるナヴィルの姿はとても魅力的である。いやしかし、こんなことばかり書いていても仕方がないのだけれど。
 著者のそのような政治的態度は、ニザンの訳者であることと切り離せないようだ。ニザンといっても、『アデン、アラビア』ではなく、『陰謀』のニザンである。自分はニザンをまったく読んでいないが、これは残念なことだった。著者は本書ではみずからをニザンの訳者であると規定することが多く、プルーストの翻訳など一行たりとも触れていない。『アデン、アラビア』はいまでも簡単に読めるが、『陰謀』はどうなのだろう。読んでみたいと思う。
 それにしても、本書の文体は見事だ。著者の思考にぴったりと寄り添っていて、文章の存在を忘れさせる体のものである。そしてここまで政治をごまかしなく語り得るというのは、著者の力量をはっきりと示すものだ。バカな物書きなら、直ちに地雷を踏んでオダブツであろう。学ぶことだらけであるな。

異郷の季節

異郷の季節

それから、著者は当り前のことのように書いていてうっかりすると読み飛ばすが、著者の「人と知り合う能力」は大変に高い。この点で、どこへ行ってもすぐに友人をつくる四方田犬彦を思い出すが、著者の場合は四方田と少しちがう。著者は四方田ほど読者に対して傲慢ではない。著者はむしろ自分を消す人というか、自分を取るに足りない人間と見做す人であり、それはある種の人間にとって当り前の態度であると自分には思われる。

伊勢崎賢治&布施祐仁『主権なき平和国家』読了。伊勢崎賢治氏(「崎」の漢字は本来この字でないが、機種依存文字なので便宜上これを使う)の本はこれまでだいぶ読んで大いに参考にしてきたし、本書も特に伊勢崎氏の共著であるということで購入した。しかし驚いたね。伊勢崎氏は日本がアメリカに対し主権をもっているとはいえないという事実に、いままで気づかなかったのだろうか。正直言って、ちょっと伊勢崎氏を買いかぶっていたのかなと思う。本書の内容には本質的にはさほど驚くべきことはなく、ただ日本が主権国家でないという証拠を圧倒的に豊富な材料で示してみせたにすぎない。そして、癌は日本人そのものであることに果たして氏は気づいておられるのだろうか。どれだけ豊富な証拠を積み上げてみせても、日本人の鈍感さを目の前にしては屁にすらならないだろう。僕はよほどのことがないかぎり、(沖縄の人たちを除いて)日本人が「日本は主権国家でない」という事実に気づく未来はないと思う。*1これまで沖縄の女性たちが米兵や米軍関係者によってどれだけ暴力をふるわれ強姦されてきたか(殺害すらされた!)という事実、そしてそれに対して日本が無力であったという事実にも、「本土の人間」が気づくことはないであろう。そして我々「本土人」はそれが自分に関係のあることとはこれからも思わないであろう。自分はこういう現状に関し、事態が好転するとはほとんど思わない。まあ国家主権がなくたって実際どうでもいいのかも知れない。しかしそのことの帰結を、沖縄にだけ押し付けるべきではない。この点に関し、自分を含めすべての「本土人」が「有罪」であると思う。はっきりいうが、沖縄だって日本なのだし、沖縄人は日本人の筈ではないか。自分はパヨクだが、右翼はこの事実を前に恥じることはないのか? そんな「愛国者」を、愛国者と呼べるか?

主権なき平和国家 地位協定の国際比較からみる日本の姿

主権なき平和国家 地位協定の国際比較からみる日本の姿

なお、日本がジブチに対し、アメリカが日米地位協定においてなしているよりもひどい内容の「協定」を結んでいるという事実は知らなかった。本書で自分の不明を恥じたのはそこだけである。しかし、伊勢崎氏が本書の最後にこれを「リベラル」にだけ主張した理由はよくわからない。どうしてこれを「保守」にもいわないのか? その点は自分は納得がいかない。とまれかくまれ、本書がひとりでも多くの人に読まれ、事態を変えられることに期待する。

結局、自分の言いたいことはひとつだけである。沖縄以外の「本土」に、米軍基地の主要機能を移転せよ。矛盾を沖縄にだけ押し付けるな。以上。

*1:であるからして、我々はどうしたらその「よほどのこと」が起こせるかを考えなければならないのだ。つまり、敵は「(沖縄人以外の)日本人の鈍感さ」なのである。これは超絶的な難問である。これまで多くの人たちが、これに挫折させられてきたのである。