『ベルクソン書簡集 I 1865-1913』 / 中井久夫訳『カヴァフィス全詩集 第二版』

曇。

どうでもいいことばかりしていた。

図書館から借りてきた、『ベルクソン書簡集 I 1865-1913』読了。ボアグリオ治子訳。本書を読んだからといって、ベルクソンの思想がよくわかるようにはあまりならないと思う。ベルクソンは手紙では、自分の具体的な思想についてはあまり語っていない。まず気づくのは、他人から贈られた本や論文(いわゆる「御恵投」というやつである)に対してベルクソンはいちいち丁寧に返答していて、それもその殆どのものは絶賛であることだ。どういうものか知らないが、他人から贈られてきた本がすべて世紀の傑作であるということがあり得るのだろうか。正直言って、ウィリアム・ジェイムズに対して以外は、どこまで本気なのか自分にはよくわからない。非常に polite な人ではあるが、心にもないことを言っているのならどうかなあと思う。まあしかし、そんなイジワルなことを言うのは自分だけかも知れない。
 それからあとは、自著の翻訳に対する異様なまでの注文づけが気になる。翻訳に関して、あまりにも厳しい感じで、訳者が指摘しているとおり、ドイツ語訳に関して翻訳者であるベンルービをわざわざ自宅に何度も呼び寄せて細かく注文を付け、最終的に満足したと言っているのに、結局ベンルービの訳は『物質と記憶』も『創造的進化』も出版されなかったのだ。これもまた異様な感じである。一種の「潔癖症」なのではないか。また、とても敬意を払っていたウィリアム・ジェイムズの著作の仏訳についてなど、ウィリアム・ジェイムズ自身が OK を出しているのに、翻訳者の不適格を主張するのである。
 まあしかし、ベルクソンはそれだけ学問というものを、あるいは真理というものを神聖視していたのであろう。ベルクソンは正確さに対する信仰があったように思える。それゆえ、精密な科学を生み出さなかった東洋思想へのベルクソンの評価は低い。少なくとも、そう読めてしまう箇所があるのは事実である。まあ、それはそれでいいだろうが。

ベルクソン書簡集〈1〉1865‐1913 (叢書・ウニベルシタス)

ベルクソン書簡集〈1〉1865‐1913 (叢書・ウニベルシタス)

せっかくなので、ひさしぶりに『意識に直接与えられたものについての試論』を読み返してみようと思っている。

中井久夫訳『カヴァフィス全詩集 第二版』読了。コンスタンディノスペトルゥ・カヴァフィスは二〇世紀前半のギリシア詩人。読み返して思ったが、これは以前読んだときにわかった筈がない。いまもわかっているか覚束ないものがあるが。自分は正直言ってカヴァフィス詩に強烈に惹かれるというほどではない。特に、ひとつふたつ読んだくらいではよくわからないのだが、通して読むと、現代における詩人自身の官能から、歴史上の有名無名の人間を歌った Hellenic な作品までが渾然一体となった、独特の雰囲気は確かに魅力的と感じざるを得ない。いずれにせよ、カヴァフィス詩は過去を向いているという印象である。ノスタルジアとはまたちょっとちがうのだが。中井久夫氏の翻訳の見事さ(もちろん日本語訳しか自分は読んでいないが)は、いまさら言うまでもないだろう。

カヴァフィス全詩集

カヴァフィス全詩集

個人的なことだが、どうもいま手元にある本は古書として買ったようだけれども、どこで買ったものか。たぶん、京都に住んでいたときに、滅多に行かなかった或る古書店でたまたま購入したのだと思う。そこは、確か北大路のバスターミナルのちょっと東あたりではなかったか。どうも記憶が曖昧である。いずれにせよ、二十年以上前の話だ。