坂井豊貴『ミクロ経済学入門の入門』

曇。


バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第二番 BWV1003 で、ヴァイオリンはナタン・ミルシテイン


ヨハン・ルートヴィヒ・クレープスのパルティータ変ロ長調で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。クレープスは大バッハの弟子で、大バッハがもっとも愛した弟子だともいわれる。優れた作曲家だったが(それはこの演奏を聴いてもわかる)、クレープスが得意とした対位法的音楽はその頃既に流行でなくなっており、バッハが亡くなったあとクレープスは職を探すのに苦労したらしい。また、その作品は20世紀になるまでほとんど出版されなかった。以上は Wikipedia に拠る。自分はこの曲はかなり魅力的であると思うが、そういうものでも忘れられるときは忘れられるものだな。このあとクレープスが大々的に復権することがまったくないとは言えないだろうが、実際はまずその可能性はないだろう。歴史というものは残酷なものだな。


ブルッフのヴァイオリン協奏曲第一番で、ヴァイオリンは諏訪内晶子、指揮は尾高忠明、札幌交響楽団。最初は自分の好みがどうのと思っていたのだが、じつにヴァイオリンがよく鳴っていて魅了されてしまった。豊麗で美しい、ヴァイオリンの美音としては最高クラスだと思う。これはどこへ出しても通用するだろう。そして、ちょっと美音を抑えめの終楽章がまたすばらしかった。諏訪内さんってこんないいヴァイオリニストだったのだな。よく知りませんでした。なお、アンコールのバッハのアンダンテは先ほどミルシテインの演奏で聴いたばかりで、どうしても比較せざるを得なかった。諏訪内さんの弾き方はどうも自分にはボウイングの状態が音に出てくるそれなのではないかと思われる。ヴァイオリンらしいといえば、こちらの方がヴァイオリンらしいのかも知れない。ミルシテインの演奏はもっと安定していて、聴いているだけではボウイングの状態は(自分には)まったくわからない。バッハの弾き込み具合では、ミルシテインの方が優れているように思う。音は諏訪内さんの方が美しい。正直言うと、アンコールは聴かない方が幸せだったような気がする。

雨。ミルシテインの演奏でバッハのアンダンテを聴きなおしてみる。諏訪内さんの方が上手いのだが、ミルシテインの淡々とした成熟した演奏を聴いていたら何だかさみしい気持ちになった。いまやこういうヴァイオリンを弾く人がどれくらいいるのだろう。いや、僕はたんによく知らないだけなのですが。浅田さんのいう「子供の資本主義」の中で生きていると、確かに自分もそれにどっぷりつかってはいるのだが、時々たまらなく息苦しくなる。あ、言っておくけれど、これは諏訪内さんとは関係ないですからね。誤解なきよう。

昼から仕事。優秀な JK があんまり世間知らずなので、ちょうど開いていた日本史の資料集を指さして「こういう奴らを読むんだよ」と言ったら、えーでもそうこれは読んでみたいと言ったのが谷崎潤一郎江戸川乱歩。お前、こいつら変態性欲者だよって言ったら信じてもらえなかった。こいつは女の足で踏まれるのに興奮するやつだし、こいつは土蔵の中でめっちゃ変態的なことをする小説を書いたし、っていったらさらに信じてもらえなかった。あのね、教科書に載っているやつがマトモな方がおかしいんだからね。僕はセクハラエロオヤジでは(たぶん)ありません。歴史を作ってきたのは純粋培養されたお子様ではないのです。
 例えば謹厳なる鴎外先生だって、「舞姫」を読んだらやることやってんなーとわかるでしょ。「雁」はお妾さんを囲う話だし。ノーベル文学賞受賞作家の川端康成とか、どうしようもなく処女が好きだったし。「雪国」ってとんでもない小説ですよ。逆に、エロい作家と思われている荷風は、まあエロは書くが至ってノーマルなのだよね。とにもかくにも文学者なんてのは碌でもないので、だからすごい小説が書けるのである。
 そもそも、かの「源氏物語」なんか、ひどいですよ。抵抗できない女性を手籠めにするとか、もうありまくり。もう(多くは異常な)恋愛の話しか書いていない。主人公は極度のマザコンだし。何であれが古典の教科書に載っている、いやさらに入試に出るのか、謎なものがある。まあしかし、おもしろい(?)ところはさすがに注意深く避けてありますが。これが第一の古典であるという日本文学は、自分は最高だと思う。これはかの本居宣長先生も同意見である(マジです)。しかし、あれを書いたのが女性だというのは…。
 
しかしまあ、僕は露伴なんかが好きですね。露伴は人間の暗黒面もよく知っていたが、とてもバランスの取れた偉大な文学者だった。というか、時代が時代だったら文学などやっていなかったかも知れない。博識は蘊奥を極めていたが、そこいらのじいさんとふつうに話せる常識人でもあった。露伴の釣りの話とか、じつにのんびりとしたもので、ああいう人を生んだ江戸文化はレヴェルが高かったなと思う。もちろん露伴は江戸っ子の直系である。ああいう日本は、いまや苦労して探さねば見つからないようになってしまった。

坂井豊貴『ミクロ経済学入門の入門』読了。経済学をまったく知らない人が最初に読むといい本として本書はよく挙げられるので読んでみたが、うーむ、そんなに簡単な本かなあと思った。確かに語り口は親しみやすいし、数式をほぼ使わずすべて図で説明してあるというのはそのとおりで、また解説も丁寧であるけれども、よほど僕は頭が悪いようである。僕はどちらかというと数式をそれほど怖がらないので、ふつうに数式が出てくる本の方がわかりやすいのかも知れない。おおよそ本書の半分くらいまでは「画期的だ!」と思ったが、次第に「何でその図になるの?」という感じもしてきた。たぶんきちんと説明されているのだろうが、残念ながらこちらの能力不足である。
 まあ、いつもエラそうなことを書いていますが、僕の能力なんてこんなものです。僕には、先日読んだ飯田先生の本の方がわかりやすかったですね。けれども、懲りずに経済学はこれからも齧るつもりです。何にもわからなくても読んだ方がマシということは、じつに頻繁にあるので。

ミクロ経済学入門の入門 (岩波新書)

ミクロ経済学入門の入門 (岩波新書)

経済学講義 (ちくま新書1276)

経済学講義 (ちくま新書1276)

 

 
東日本大震災のときの原発事故に関する、当時の総理補佐官であった寺田学氏によるリアルな記録。非常に貴重なものであり、正直言って涙無くしては読めなかった。これは自分の感傷癖によるものではないと信ずる。当時からずっと菅首相(当時)は色いろと非難され続け、自分もバカにしていたところがあったが、無知とはまったく恐ろしいというか、まあ読めばわかると思う。そして誰とはいわないが、ここの登場人物の何人か(班目春樹原子力安全委員会委員長とか東電本社の対応とか)には、その卑劣さに悲しくなってくるような人間が存在することに、人間性への深い幻滅を抱く人(=自分)もいるかもしれない。またかかることがあっても日本がほとんど何も変わらなかったという事実には、(自分も含めた)日本人に対する一種の侮蔑感を感じずにはいない。ただ、よくやった方々が多数おられたこともまた明白で、その人たちがいたからこそ完全な破滅には至らなかったのかも知れない。自分はそれにさほどの希望を見ないが。

なお、この記事はツイッターを漫然と見ていて見つけたものである。それだけでも、ツイッターに感謝したくなる気持ちを抑えきれない。

なお、これを読んでひとつ感じたのは、菅首相が理系であり、さらに原発について専門的な知識をたまたま持っていたことが少なからぬ利点になっているということだった。菅首相は事態をかなり正確に理解していた当事者のひとりであったように思われる。また、この記事の知識をもって参考資料(簡単にアクセスできるものとしては Wikipedia)を読むと、色いろわかることがあるだろう。とにかく多くの人間が保身のための自分に都合のいい発言をしているので(それは人間の愚劣さゆえそういうものであるが)、この記事はかなり役に立つ。もちろん寺田学氏の発言にまったくそういうところがないと思っているわけではないが、そのあたりは実際に色いろ読んでみれば誰でもすぐにわかることである。(AM01:18)