萱野茂『アイヌ歳時記』 / 神林長平『フォマルハウトの三つの燭台 <倭篇>』

曇。


リゲティ木管楽器のための六つのバガテル(1953)。


シェーンベルク木管五重奏曲 op.26 で、演奏はウィーン五重奏団。リゲティの後で聴くと、シェーンベルクがロマン派直系であることがよくわかる。それにしても、我々はシェーンベルクに驚き続けるべき。これほど二〇世紀の古典の名にふさわしい作曲家はいない。


柴田南雄の「カドリール」(1975)。これはおもしろい。

萱野茂アイヌ歳時記』読了。副題「二風谷のくらしと心」。地味な題名だが、アイヌ・ネイティブによるアイヌ文化の記述に満ちている。大変におもしろいものであった。著者はアイヌ語を native tongue とする著名人らしいが、自分はまったく知らなかった。陳腐な言だが、アイヌの人々の心の豊かさが身に沁みる書物である。
 アイヌの人々の主食はサケであったらしい。しかし、和人はアイヌの人々がサケを採ることを「禁止」した。当時のアイヌの人口は 2万人以下で、必要なサケの量は和人が捕獲していたそれに比べればほんの少量にすぎなかったのにである。著者はある民族に主食を採ることを禁じられた民族の存在を他に知らないと書いておられるが、自分もまた知らない。自分はアイヌに比してことさらに和人を貶めたいわけでも何でもないが、少なくとも我々和人は魂の豊かさという点でアイヌの人々にかなり劣るというのが真実である。

図書館。結構借りた。
 

倒れた柿の木(油壺)の実。

図書館から借りてきた、神林長平フォマルハウトの三つの燭台 <倭篇>』読了。神林長平は高校生(いや、中学生かも)のときから読んでいる SF 作家である。読み始めてからもう30年くらいになるのではないか。最近では伊藤計劃円城塔などの書き手が出てきたが、そのルーツみたいな人であるといえようか。僕は昔からこの作家が好きで、長らく愛読してきた。本書は最近の本であるが、あいかわらず神林長平はおもしろいなと思う。神林には独特の思考法があって、その作品は「自分」というものの謎によってできているとも言えるだろう。自分とは何か、自我や意識とは何か。自分を自分たらしめるもの、アイデンティティとは何か。自分は誰かに操られているのではないか。そんな感じである。そしてもうひとつ。「世界は語られることによって存在するのではないか」という感覚。これらが合わさって独自の世界を形作っているのである。そして、そのフィクションの世界は自分には強力なリアリティを感じさせる。ってまあむずかしく書いてしまったが、とにかく僕は神林長平の作品世界が好きなのですよ。今回もそれが確認できて愉快だった。本書の内容には具体的に触れなかったけれど、それでいいだろう。そうそう、それで神林長平の作品には機械が一種の「意識」をもつような話が多いが、本書にもそういうガジェットが使われている。神林は言葉の魔術が使える SF 作家なのだと思う。

フォマルハウトの三つの燭台〈倭篇〉

フォマルハウトの三つの燭台〈倭篇〉

 
「本はねころんで」さんのブログを読んでいたら、岩波書店も経営が大変というようなことがあって、それはそうだろうなと思った。しかし、岩波書店がつぶれたら日本もおしまいだと思う(ってまだ終ってないかのような口ぶりだが)。そんなことになったら自分はマジで絶望だが、そんな日は遠くないのだろうか。ちょっと考えたくない話である。岩波書店、いつまでも買い切りにしていてよいのだろうか。