篠田秀朗『ほんとうの憲法』

日曜日。晴。
いま本も音楽もわからない。詰め込むときだな。


バッハのブランデンブルク協奏曲第四番 BWV1049 で、演奏はフライブルク・バロック管弦楽団


モーツァルト交響曲第四十一番 K.551 で、指揮はフランス・ブリュッヘン18世紀オーケストラ。感動。この動画、どうして 400pv しかないのだろう。多くの人に聴いて欲しい古典的な名演だな。しかし、ブリュッヘンっていまひとつ評価されていないのだなあ。カノンなのに。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十六番 op.81a で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニポリーニがいちばんよかった頃のライブ音源。私見ではこの曲の理想的な演奏は人間には不可能である。リヒテルのライブ録音は少なくとも自分は知らないし、グールドはこの曲を愛したが彼でも録音できなかった。ポリーニのこの演奏は、不可能にもっとも近づいた極限的演奏であろう。この頃のポリーニですらパーフェクトではないが。なお、この録音は状態が非常に悪く、テープのヒスノイズがひどい。ノイズをデジタル処理して CD化して欲しいが、まず無理だろうな。

鹿島茂氏が中心となって立ち上げた、書評アーカイブ・サイトである。母に教えられたもので、試みにちょっと覗いてみたら大変におもしろかったから、僕もリンクしておく。ここを経由してアマゾンなどで(アマゾンが嫌いな方は 7net や楽天BOOKS という選択肢もあります)書籍を購入すると、なんと書評家に一部還元されるというシステムだ。これはすばらしい試みなのではないか。僕は源一郎さんや吉本さんの手になる書評を読みちらして愉快だった。豊崎社長なども参加されております!

カルコスへ行こうとしたら老母が「本を買うな」という。このところ本屋へ行くのは月に二三回くらいにしているのだが、それでもこういうことを言われるのだな。今月は本屋へ行くのは初めてである。何だかカルコスにいてもむなしかった。といいつつ、老母は結構僕の本棚から本をもっていくのですけれどね(笑)。それから、そういうことをいいつつ、僕に本を書けとかいう。まあそんなこんなはしかたがないとあきらめてはいるが。それでも、数冊は買ってきましたよ!(笑)

ちなみに、今月これまで読んだ本のうち自分で買った本は二冊だけである。そのうち一冊は古書店(いまはない「我楽多書房」)で買ったもの。ほとんど図書館に切り替っている。

篠田秀朗『ほんとうの憲法』読了。副題「戦後日本憲法学批判」。このところこういう題の本はまず買う必要はないのであるが、副題に惹かれて買ってみた。自分としてはめずらしく、線を引いたりしてかなり詳しく読んだが、実にヘンな本であった。というか読んでいるときは丁寧に感想を書こうかとも思ったのだが、どうもゲンナリした気分なのでやめておく。簡単にいうと、本書が言っているのは、日本はアメリカに負けたのだから、東大法学部は日本を守ってくれるエラいアメリカに楯突かずに、つまりは英米流の意味の「立憲主義」を受け入れろ、という話である。さらに、日本はアメリカを中心とする国際協調体制に順応し、その「正義」を受け入れて国際貢献しろということだ。つまりは、現在の統治者たちの「気分」を学術的に論理化したものである。まあ、いまどき特にめずらしい意見でもなかったが、とにかく「東大法学部」に対するルサンチマンがすごいように自分には思われた。ちなみに著者は早稲田大学政経学部の出身である。パヨクのゲスの勘ぐりであろうか。いずれにせよ東大であろうが早稲田であろうが、自分にはどうでもいい話である。著者の言っていることにも、とりたてて反論しようとは思わない。というか、バカの素人がそんなことをしても何の意味もないだろう。しかし、その「現実志向」であらせられる著者の意見として、日本ではよく「自衛のための軍隊」という言葉が使われることに対し、

自衛のための軍事力しか持たないというのは、全く普通のことである。いったい世界のどの国が、自衛以外の目的で軍隊を保持しているのだろうか。(p.56)

というのは思わず笑った。これマジで言ってんの?と思わざるを得ない。もし著者のいうとおりならば、とっくに世界から戦争はなくなっている筈である。もちろん著者はユーモアで仰ったのであろう。
 それから、日本ではしばしば「主権者である国民が政府を制限するのが立憲主義だ」と強調されるが、著者に拠るとそれは「国際的に標準とは言えない」(p.15)のだそうである。僕はそれが事実なのか知らないが、「憲法は権力を制限する」というのが少なくとも大陸系(?)の考え方として存在することは著者も認めている。それに対して、著者は様々なことを述べているが、例えば「国民主権」よりも「法の支配」の方が優先するのだという。著者にいわせれば、「法の支配」こそ絶対であるわけで、「国民主権」は二次的なものなのだそうだ。自分にはこれだと、我々は悪法にも抵抗できなくなってしまうような気がしてしまうのだが、これはもちろん素人考えなのであろう。著者ははっきりと述べている。

国民に主権があるという思想は、…二次的な重要性しかない。
立憲主義とは、「法の支配」の貫徹である。(p.16)

ふむ、完全に統治者の論理で、「主権者による権力の制限」とは真逆の発想であることが直ちにわかる。もう少し固い言葉でも述べられている。

英米圏で発達した「立憲主義」は、国民による政府の制限ではなく、憲法規範による社会構成員全員の制限によって定義される。(p.15)

ここで「社会構成員全員」というのはわかりにくいがつまりは「国民」のことで、結局「憲法は国民を制限する」ということである。まさしく真逆。驚きだ。しかし自分は、「憲法は国家権力を制限する」という考え方はイギリスのマグナカルタが発祥だと思っていたのだが、著者の「英米圏」というのとまったく対立するね。まあ僕が素人だから知らないだけかもしれない。で、どうして著者は「英米」を強調するのか。この「米」つまりアメリカが著者には重要なのだ。つまり、日本の憲法学は戦争でアメリカに負けた事実を隠蔽するため、ドイツ系の憲法解釈を意図的に導入したというのだ。で、どうして著者はアメリカ流の考え方を選択するのか。それは色いろ言っておられるが、つまりは日本国憲法を起草したのがアメリカだからだというのである。自分にはどうもよくわからない論理だが、まあ学問とはそういう考え方をするものなのだろう。
 あと、著者が東大法学部を批判するため、美濃部達吉を否定しようと大変面倒な論理を構築していく部分とか、現実の「憲法第九条」の話だとかもあるが、もういいかげん面倒なのでやめる。何かすごい徒労をした感じ。皆さん、とにかく本書を読みましょう!

 
しかし、「すべての国家は自衛のための軍隊しかもたない」という呑気な人がいる一方で、いまにも核戦争が起きるかもしれないというのはシュールだ… ヘンな時代だな。頭のいい人たちは色いろいうのだが、庶民は呆然として何をすることもできない。あーあ。