こともなし

晴。長崎の原爆の日
昨晩は西田幾多郎の有名な論文「場所」を読んで寝た。非常に気合の入った文章である。これ、難解は難解なのだけれど、すごいですよ。西田は「意識」と言っているけれど、じつは殆ど「無意識」レヴェルの話だと思う。というか、我々の心の奥の奥、根底に近いレヴェルだ。それからこれはもちろん西洋哲学のタームで、その伝統の中で書かれてはいるけれど、我々日本人には親しい考え方の論理化だと思う。西洋人にだってわかるように、西田は書いたのだ。中沢さんが西田や田辺の哲学を称して「フィロソフィア・ヤポニカ」といったのがじつはひどく感動的で、もっともなことであると、ようやくわかってきたのである。

それにしても西田の扱っている領域の深いことよ。何となく誇らしくなってしまうものだ。
 

バッハのブランデンブルク協奏曲第五番 BWV1050 で、演奏はフライブルク・バロック管弦楽団。第一楽章は自分の好みよりテンポが若干速いが、それ以外は溌溂としてよい演奏だ。


ベートーヴェン交響曲第八番 op.93 で、指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。よい。


ドビュッシーのフルート、ヴィオラとハープのためのソナタで、演奏はフルートが Pei-San Chiu、ヴィオラが Tze-Ying Wu、ハープが Joy Yeh。

自分はいま欲望(リビドー:欲動)とか、あるいはフロイトが「タナトス」というタームで呼んだ対象について興味がある。それは深さを要求する話である。現在は深さを問わない時代であり、それをむしろ胡散くさいものだと見做すのが主流であろう。つまりはそれが蓮實重彦などの戦略であった。なるほど、深さというのは得体が知れず、愚か者が勝手なことをいってもわからないということで、ゆえに表層に着目するというのはやはり正しい。しかし、自分はそれだけではなく、あえて深さについても考えてみたいと思う。まあ、というか、たんに気になるだけなのだが。

意志。意志は結構なものだと見做されている。さて、将棋のある棋士が、今日はこういう作戦でいき、こういう勝ち方をしようという意思をもつことはできる。しかし、それはおそらくそのままではいかないはずだ。というのも、将棋には相手が存在するから。これと似たようなことで、我々の前には既に世界が存在する。自分のやり方は、意思によって世界を変えるというよりは、世界に対して constellation を描くように行動していくということだ。それはある意味では受動的であるが、そういうしかたが無意味なものだとは思わない。

「承認欲求」というか、つまりは他人に認めてもらいたいという欲求は厄介なものだ。いや、俺はそんなものは気にしない、承認欲求などないという人もおられるかも知れないが、その逆、世界の誰からも認めてもらえず、つまりは自分が世界の誰からも必要とされていないという状況の中で生きていくのが容易でないのは、多くの人が理解できることではなかろうか。しかし、この「承認欲求」は我々の癌である。それを破壊するのは不可能だし、また必要でもないと言われるかも知れないが、少なくとも「承認欲求」のハードルは最小限度でなければならない。それを自分は確信している。「承認欲求」は我々を殺しかねない。

いくら我々が孤独に感じても、世界のあらゆる存在の連鎖の中で生きているのはまちがいない。それが鍵のひとつとなるだろう。
 

ぞろぞろのクサギ。くさいからこの名がある。暑い中でもとても元気な樹だ。いま花が咲いている。

1646夜『人間はガジェットではない』ジャロン・ラニアー|松岡正剛の千夜千冊
あいかわらず松岡正剛がめちゃくちゃなことを言っている。例えば UNIX についての考え方など、失笑物である。確信したが、松岡正剛はプログラミングを本格的にどころか、よちよち歩きの段階ですらやっていない。やっていれば、こんなことが書ける筈がないからだ。LISP もどれだけさわったのか? とにかく UNIX についてなら、下記の本の内容くらい理解しておいてほしい。別にこの本が必読であるとは言わないが(けれども自分はいい本だと確信する)、こんなことは殆ど当り前のことである。知らないでは済まされないのだ。

UNIXという考え方―その設計思想と哲学

UNIXという考え方―その設計思想と哲学

松岡正剛はたぶん「ヴァーチャル・リアリティ」という「カッコいい」言葉に反応しているだけである。それにしても無内容な記事で呆れた。自分程度の初心者プログラミングくらいやってから、エラそうなことを言え。

ラニアーたちは、Unixが離散的で抽象的な記号の組み合わせを選択したために、R世界の連続性や非抽象的な感覚を著しく軽視していくのではないかと危惧した。
 こういう設計はよくない。そう思ったのだが、その後のウィンドウズも結局はこのUnixの亡霊を嫁にもらうことになった。そして世界を支配していくことになった。何かが、まずい。こうは、したくない、その気持ちがヴァーチャル・リアリティという用語にこめられている。

...

なぜファイルが問題なのか。ファイルというソフトプログラムは、人間が興味をもったり表現したりするものは必ず小さなクラスター(かたまり)に切り離すことができるという考え方にもとづいて設計されている。そのクラスターは必ずヴァージョンがあり、それらを操作するにはファイルのためのアプリとマッチしていなければならないというふうになっている。
これではまずい。人間がファイルに見合うガジェットになっていく。人間にひそむ可能性が切り刻まれて、どんどんマッシュアップされていく。

http://1000ya.isis.ne.jp/1646.html

アホか。ファイルとディレクトリ構造が「人間にひそむ可能性」を「切り刻む」のだって? こういうのを「短絡」の議論という。では、ファイルとディレクトリ構造なしで、「人間にひそむ可能性」とやらを発揮するシステムを作ってみたらよいではないか。それが本当に期待どおりのものになるか、じっくりと見物させていただこう。それが意味あるものであれば、脱帽いたします。
(なお、ファイルが「ソフトプログラム」なのではない。松岡のいうのとは逆に、「ソフトプログラム」がファイルの一種なのである。それから、「クラスター」の「ヴァージョン」を操作するのに「ファイルのためのアプリとマッチしていなければならない」というのは、理解不能な支離滅裂な内容である。松岡がよく理解していないからである。)

僕は必ずしも、生の全体がネット化していく現代に全面的に肯定的であるわけではない。しかし無知はいけない。ひどすぎる。例えば、「LISPマシンの無償ヴァージョンやリナックスのようなキラーOSが時代を席巻してしまう」というのもまったく事実と反する。まだまだたくさんあるが、もう面倒なのでやめる。まあ、松岡正剛など正直言ってどうでもいいので。

まつもとゆきひろさんは UNIX は最高のプログラミング環境だと言っておられる。RubyUNIX の世界で育った子供なのだ。その Ruby が、もっとも人間にやさしいプログラミング言語だという人もいる(もちろんそう思わない人もいる)。Ruby の標語は、A PROGRAMMER'S BEST FRIEND である。そのあたりを、松岡正剛に語ってもらいたいと思う(無理だろうが)。

夜、仕事。テレビニュースを見ていると気がくさくさする。案外世界の終わりは近いのかも知れない。
自分のブログを見返してみて思ったが、僕はあんまり「いい人」じゃありませんね。まだまだ修行が足りない。
 

モーツァルトのフルートとハープのための協奏曲 K.299 で、フルートはフィリップ・ブクリー、ハープはイザベル・モレッティ、指揮はネヴィル・マリナーモーツァルトの音楽の中で個人的にいちばん天上的といいたいのがこの曲である。作曲されたのはモーツァルトが22歳頃で、モーツァルトその人ですらこれほどまでに無垢な傑作をいくつも書けたわけではない。というくらい自分は好きだ。特にハープのパートが好ましい。この演奏についていえば、名演といって差し支えないでしょう。