こともなし

雨。

朝起きたらスターがたくさん落としてあって、敬愛するブログの書き手さんがひさしぶりに見て下すったのがわかり、うれしい。いつも見て下さる方たちには本当に感謝しているが、断続的に来て丁寧に読んで下さるのもうれしいものだ。彼のブログはこのところお休みのようで、また再開されるといいなと待っている。

昨晩は中沢さんを読んで寝た。『フィロソフィア・ヤポニカ』マジでむずかしい。でも、鬱々した気分には気合の入ったものを読むのが精神の健康にいい。自分には一生かかっても読み解けないような、むずかしい内容なのだけれど、却って鬱陶しい気分を払ってくれるから不思議だ。西田幾多郎も読み直さないとなと思う。中沢さんに拠ると、西田哲学はフロイト(あるいはラカン)思想と本質的な親近性があるらしい。つまりは、欲望の哲学だというのだ。驚きだが、深い説得力がある。でも、自分のもっている西田は岩波文庫の三冊本の論文セレクトが主なもので、あれで足りるのだろうか。岩波文庫岩波現代文庫か何かで、本格的なアンソロジーを編んでもいいのではないか。

西田哲学は自分はまだ全然読み解けていないわけだが、西田という人は人間としても明らかに尊敬できる人だ。最近では戦争犯罪人のような扱いも受けている西田であるが、そういうことを言う人たちは何もわかっていないというか、呑気なものだ。本当に西田を読み込んでいるのかと思いたくなる。西田は思考を逆回転させるようなつらい労苦を厭わずに粘り強く哲学しただけでなく、現実のこともよくわかっていた人だった。例えば団塊の世代とかバブル世代みたいなのがおもちゃにしてわかる筈がない。

西田は哲学は人生の深い悲哀を元に建設されねばならないと考えていたようだが、ここでいう悲哀は、人間の感情の根本であると思う。僕は、もっとも基本的な、基礎的な感情は悲しみだと思う。人間らしい人というのは、悲しむことのできる人であろう。仏教でも、「大悲」ということを言うではないか。ネットの基礎的な感情は嘲弄であるように思われるが。


バッハのイギリス組曲第六番 BWV811 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。こちらの感傷を切り裂いていくような、偉大な音たちだ。唯物論的ピアノ。しかしそれは、無機的な演奏を意味しない。ザハリッヒでありつつ、高貴な精神性を保っている。絶対的バッハが立ち上がるといってもいいだろう。


シューマンのペダルピアノのための練習曲 op.56 で、オルガンは Dan Zerfaß。ペダルピアノというのはいまでは殆ど使われない楽器らしく、このためのオリジナル曲として有名なのは、シューマンのこの曲がほぼ唯一らしい。ここではオルガンで演奏されているようである。初めて聴く曲であるが、結構いまのこちらの気分にぴったりで、曲に浸ることができた。同じシューマンの四つのフーガ op.72 を思い出したが、的外れかも知れない。僕はシューマン、感傷的といわれようが好きですね。

apt で google の更新に失敗する + 「破損パッケージ」 - Marginalia
Linux の apt-get の依存関係のエラーを頑張って修復。何かちょっとレヴェルアップしたかのような気になって自己満足である。

ダイクストラ法(Ruby) - Camera Obscura
ダイクストラ法の実装。

夜、台風による激しい風雨。仕事は延期にする。

西田幾多郎を読み返し始める。むずかしいけれど、いける感じ。わからないなりに、音楽を聴くような感じで読める。つまり、文体が感じ取れるということ。