エリアス・カネッティ『断想 1942-1948』

日曜日。晴。広島の原爆の日
よく寝た。いつものごとく睡眠の後始末が大変。とりあえずボーっとしていたらもう 3時だ。

気づいたら夕ごはん。


シューベルトの「さすらい人」幻想曲 D760 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。この曲のポリーニリヒテル以外の選択肢をついに見つけた。これほどのピアニストがどうして殆ど知られていないのか。歴史が公平なものだというのはウソではないか。

世界わが心の旅
島田雅彦ヴェデルニコフを評価しているのだな。さすが。浅田さんも絶賛しているようだ(参照)。なるほど。知っている人は知っているのだ。いや、検索してみると一般でもかなり再評価されているようである。自分が知らなかっただけか。そりゃそうだ、これがわからないということはあり得ないよな。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十番 op.109 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。最高クラスの名演。二十世紀を代表するレヴェルのピアニストが突然発見されるということが、本当にあるものなのだなあ。それにしても、かかる音楽性の深さと完璧な技術が合わさった演奏というのが、この曲には殆どあり得ないので、これには驚かされる。音楽性が深いだけなら、他にも選択肢はいろいろあるのだけれどね。

図書館から借りてきた、エリアス・カネッティ『断想 1942-1948』読了。

 
ブログ「本はねころんで」さんが、このところジョン・バージャーの「屈することなき絶望」について話題にしておられる。「屈することなき絶望」というのは近年自分の抱いていた感覚にとても近く、それを一言でいわれたような気がした。このところは世界からも既に見捨てられ気味なパレスチナなど、一片たりとも希望はないが、それでも屈しない人たちは存在する。(しかしいまのパレスチナに住む人たちの少なからずは、自分の知っているかぎりでは、既に無感覚に虐殺されていくのに近いようだ。)日本では、「本はねころんで」さん(あるいはノーマさん)はフクシマの人びとを挙げておられたが、沖縄の人々もまたそうではないだろうか。それにしてもジョン・バージャーとは自分はまったく知らない名前なので、調べてみたところ、「ねころんで」さんの挙げておられた小説『G』の他、美術評論が二冊ちくま学芸文庫に入っているようである。それではと思って日記に検索をかけてみたところ、少なくとも『イメージ』というのは既読であった(参照)。呆れたもので、読んだことすら覚えていなかったのはまあ毎度のことである。『G』も、きわめて廉価で手に入ることがわかったので、ネットで注文しておいた。しかし、「屈することなき絶望」とはしんどい話で、自分はなさけないことに屈しそうな感じである。気息奄々。
 あとこのところ「絶望」で思い出すのが、(またもや)吉本さんのことだった。ある外国の研究者が吉本さんのところに来て、確か吉本さんに、どうしてあなたの文章は外国で読まれないのか、外国人は吉本さんをどう読んだらよいかみたいなことを聞いたらしい(うろ覚えである)。そういう、まあ失礼というか、呑気ともいえる質問に、吉本さんは、「あなた方は絶望が足りない」と言ったというのである。それを聞いてその研究者は絶望したらしいが(笑)、最近この言葉をよく思い出すのだ。いや、ただそれだけの話です。