マーク・マゾワー『バルカン』 / 中上健次『化粧』

曇。
早起き。すごい夢。「月」が最強だったのだけ意味がわからなかった。


バッハのパルティータ第六番 BWV830 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。見事。


ドビュッシー弦楽四重奏曲ト短調で、演奏はドロルツ四重奏団。これってこんな曲だったのか。よくわかってなかったな。おもしろい。


シューマンのピアノ・トリオ第一番で、ピアノはアンドレ・プレヴィン、ヴァイオリンはチョン・キョンファ、チェロはポール・トルトゥリエ。これは骨太の名演だ。

図書館。帰りにコンビニでカルピスソーダ濃いめを買ってきた。あまい清涼飲料はデブる元だから気をつけないといけないのだけれど。

謂れのない圧力の中で
SHADE さんのブログで知った文書。灘中が左翼系の歴史教科書を採択したことに対し、どのような(右翼的)政治的圧力が学校にかけられたか、赤裸々につづったものである。呆れた話だ。そもそも教科書の検閲自体おかしな話だと思うが、それを措いても、「検定に合格した」歴史教科書など、どれを使おうが何の問題もない。現代の「戦前」ぶりをあぶり出した話であると思う。それにしても、世の中には下らない奴が多すぎるな。いくら自分がどうしようもない人間でも、こういう奴らよりはマシだと胸を張っていえる。さらにパヨクとしていわせてもらえば、心ある右翼はどこへ行ったのですかと思う。僕は右翼でまともな人間がいることをもちろん確信してるが、そういう人たちはいまやどこにいるのだろうと疑問に思わずにはいられない。

業務連絡です。mathnb さんはコメント欄に数学の問題を書き込むなら、こちらのサイトのコメント欄にしてもらえませんかね。表示がひどくおかしくなることもあり、ここのコメント欄に書き込まれた場合は、申し訳ないが削除します。

マーク・マゾワー『バルカン』読了。副題「『ヨーロッパの火薬庫』の歴史」。バルカン半島あるいはバルカンの歴史のモノグラフとは、またマイナーといえばマイナーである。副題にもあるとおり、ここにはバルカン=暴力的という先入観がつきまとうが、本書はその検証であるともいえよう。バルカンの歴史が問題になるのは、オスマン・トルコによる支配が確立されてからである。これによって、通俗的にも知られているとおり、ギリシア正教徒とイスラム教徒とユダヤ人が入り混じる、複雑な民族構成が成立することになった。しかし、本書にあるとおり、人々はまずは宗教アイデンティティをもっとも重要視したのであり、農民たちは自分たちがブルガリア人かギリシア人なのかという、いわゆるナショナリズムというものを意識することはまずなかった。それは、トルコの支配が退潮し、西側諸国がバルカンに干渉するようになってから急速に「注入」されたものであるというべきである。それが、前世紀末のユーゴスラビア紛争を形成していくのだから、理念というものは恐ろしい。
 バルカンはその山がちな複雑な地形と、アジアとヨーロッパの結節点にあるという地政学的な意味において、その歴史は極めて煩雑である。自分は本書を読んでみて、とてもその細部まで把握したとはいえない。そもそも詳細な事実にわたる本であるわけだが、しかしまた、人間のやることなど、一箇所を詳しく見れば必ず得るところがあるというのが真実だろう。こういう極端な地方だからこそ、人間というものをより深く知るための助けになるところもあるのである。そうそう、オスマン・トルコ下における多民族性と宗教的寛容というのはよくいわれることであるが、本書を読むとそれは必ずしも文字どおりには受け取れないということもわかる。結論的にいえば、その一種の宗教的寛容が存在したことは事実であるが、それはむしろ理念的なものというよりは、結果的なものであるというべきである。そもそも農民たちはしたたかで、自分たちの目的のためにはイスラム教であろうがギリシア正教であろうが、場合によって使い分けているようなことすらあった程だ。もちろん程度問題ではあるのだが。
 それから、バルカンは歴史的に何度も問題の発生場所になっていて、「東方問題」というような言い方もされるが、それはじつは「西方問題」でもあったというのは本書の教訓である。じつに、西洋列強たちはここでもまた自分勝手なものであった。バルカンをめちゃくちゃに引っかき回したのは、じつに少なからぬ場合がその住民たちではなかったのである。つまりは、「オスマン帝国キリスト教世界」といった、大きな構図が住民たちを翻弄したわけだった。
 それにしても、中公新書のシブさはどうであろうか。いまや新書の良心を一手に引き受けているという印象である。

バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史 (中公新書)

バルカン―「ヨーロッパの火薬庫」の歴史 (中公新書)

 
中上健次『化粧』読了。大変なパワーをもった短篇集である。典型的な「性と暴力」の文学であるが、そういう当り前のことを言ってもしかたがない。幼稚な感想を述べれば、本書の短篇たちはじつにイヤらしい感じだった。キモい感じで進んで読みたくないというか。これはもちろん褒め言葉なのであって、人をイヤな気分にさせる文学はたいていはよい文学なのである。ただ注意しておきたいのは、どの短篇も読み始めはあまりよく思えなかったことである。これは自分に小説が読めていないか、でなければ中上健次がかなりの冒険をしているということなのではないか。海のものとも山のものもわからずに、とりあえず書き始めてみたという印象なのだ。そしていきあたりばったりな感じ。本文庫巻末には柄谷行人による解題が収録されているが、柄谷によれば、本書は一種の飛躍であるということだ。自分なども、本書には非常に荒削りな印象を受ける。そしてこれも柄谷によれば、本書の短篇群は『枯木灘』と同時期に書かれ、著者によってある意図をもってひとつの短篇集にまとめられたのだという。あとは、柄谷行人の解題を参照して頂きたい。とにかくイヤな感じの、パワフルな短篇集でした。
化粧 (講談社文芸文庫)

化粧 (講談社文芸文庫)

それから、この柄谷行人の解題は自分にはとてもおもしろかった。僕はやはり、文芸批評家・柄谷行人が大好きである。これも陳腐な評で申し訳ないが、切れ味抜群で才能のかたまりという感じがするのだった。文芸批評家としての柄谷行人は、これから再評価されるべきだと思うのだが、如何? 柄谷を縦横に語る、若い才能を期待したいところである。

個人的なことなのだけれど、この文庫本、岐阜のいまはない古書「我楽多書房」で購入したのをはっきりと覚えている。もう10年くらい前なのではないか、ここのレジのおばちゃんとちょっとした会話を交わしたので、よく覚えているのだ。本書にも関係している会話だったが、それはここで書くつもりはない。そういえば、もう BOOK OFF 以外の古書店には、長らく入っていないな。京都に住んでいたときは、毎日のようにどこかの古書店に入ったものだが。それくらい、自分の住んでいた下宿の近くに、古本屋さんがたくさんあったものだった。