愛知県美術館の「大エルミタージュ美術館展」へ

晴。
よく寝た。どうしても寝過ぎるので、その間に精神はどんどん深く穴を掘っていくので、なかなか大変なことになる。音楽とか聴いているとわりと帰ってき安いのだが、こういう音楽の複製技術がなかったらどうしたらいいのだろうね。手軽に You Tube で音楽が聴けて助かります。


バッハのフランス組曲第六番 BWV817 で、ピアノはロベール・カサドシュ。よい。


 

愛知県美術館へ「大エルミタージュ美術館展」を観に行く。今回は車で行ってみた。ずっと坂本龍一を BGM にしながら国道22号を南へ。70分ぐらいで愛知芸術文化センターに到着、ビル地下の駐車場に入ったのだが、ダンジョンみたいなことになっている。地下 4Fに駐めたのだが、広すぎて車の場所がわからなくなりそうだった。料金は 30分で 270円(結局 1時間の 540円でした)。

愛知県美術館愛知芸術文化センターの 10Fである。インターネット割引(100円)で一般1500円。夏休みのせいで子供連れなども多く、結構なにぎわいだった。肝心の絵画だが、イタリア・ルネサンスから 17世紀オランダ、フランドル、フランスという感じで、明らかに古典的な写実絵画が選ばれている。日本で「エルミタージュ」というとこれまではまずは「印象派」がお決まりだったので、このような「地味な」絵画が中心であるとは、さすがに日本人も成熟してきたのかなと思った。写実絵画もとより結構で、自分はオランダ・フランドル絵画は好きである。

このところ絵画を観ていていちばん痛感するのが、自分の目がいまやいかにインターネット画像に慣れているかということである。いかにも西洋美術主流のリアリズムであるが、昔に比べて自分の中ではだいぶ衝撃力がなくなっていることは紛れもない。ただ、同時代人はそうは思わなかったであろうが、画面の一種の「きたならしさ」というか、そんなものはおもしろかった。これは、自分がカメラをもって歩いていると、廃墟や廃屋に惹かれる感性と同類であると思う。絵画のもつマチエールのおもしろさでもあるだろう。まあそんなこんなで、色いろ考えさせられるものがあった。これからも、絵画とインターネット的感性のせめぎあいみたいなものは、我々の課題になっていくのではないか。それから、夏休みにママに連れてこられて絵を見ている少年少女たちは、生まれたときからネット環境の存在する世代であるが、こういうものをどう受け入れていくのだろうと思った。古典絵画をおもしろく思うのか、それとも Flickr, Instagram や pixiv なんかに比べたら退屈と感じるのか。気にならないでもない。

なお、その中でも 1点ずつだけあった、ティツィアーノクラーナハにはさすがに惹かれるものがあった。いずれもたぶん初めて本物を観たが、1点ずつでは蛇の生殺しみたいなものである。まとめて観たいものだと思った。

所蔵品展の「現代美術」はどれも正直言ってつまらない。これこそ Instagram に勝ち目がない感じ。ただし、木村定三コレクションの熊谷守一は今日観たどれよりもおもしろかったと告白しておく。鉛筆画の稚拙な絵など、もし小学生の落書きと同時に出されたら自分は見分ける自信がないが(なさけなし)、つまりは自分は小学生の落書きも好きなのだろうか。それはともかく、熊谷守一は全日本美術の中でも自分には最高ランクに属する画家であることを再確認した。それと、あとは西洋の幻想絵画はやはり好きだともうひとつ告白しておく。幼稚でスミマセン。しかし、いまや暗黒大陸は我々の内部にしかないのではないか。いまや、それも疑わしく、無意識ですら平板化しているような時代であるが(しかしまた、新しい才能は必ずあらわれるでもあろう)。

昼ごはんは「食べログ」で一宮・ラーメンの最初にくる店に行こうかと思っていたのだが、何だかラーメンを食べる気がせず、途中にコメダ珈琲店春日店があったのでそこへ。カツサンド+アイスコーヒー1220円。サクサクでジューシーなカツサンドはひさしぶりで美味かった。中部地方の喫茶店文化(?)ですね。無料 Wi-Fi があったのでちょっとだけネットをやる。帰りは殺風景な国道22号はやめて、県道63号を北上したのだが、これもまあ典型的な無個性ロードサイドでした。でもいまやこの無個性ロードサイドというのが、日本の原風景になっていて、実際にこういう風景が故郷になり、なつかしく感じる若い人たちがデフォルトになっている。田舎者もこういうのに慣れないとなと思いました。

夜、仕事。

いま中上健次の短篇集を読んでいるのだが、仕事のあとでは読めない。中上健次やばいっすよマジで。