井筒俊彦『意識と本質』を読み返す

晴。暑い。

午前中はごろごろしていた。

らーめん「Nageyari」にて昼食。つけ麺中盛850円。おいしゅうございました。まぜそばも食べたかったのだが、つい定番を注文してしまう。ここで iPhone で撮った写真でもアップすればブログらしいのだろうが、わたくしは iPhoneAndroid ももっておりませぬ。

井筒俊彦『意識と本質』を取り敢えず再読し終えた。いまちょっとボーっとしているのであるが、大変なインパクトがあったので読み返してみてよかったと思う。後半部分ではカバラ(カッバーラー)の「セフィーロート」についての記述が印象的であるが、このあたりはわかりやすく図示もされていて、学生のときの読み方で基本的にまちがっていなかったのではないかと思う。それよりも自分のことで気がついたのだが、自分もこれまでの風潮に流されて、いわゆる mundus imaginalis(アンリ・コルバン)について深めていなかったなと思った。ポストモダン哲学では特に日本でラカンのいわゆる「想像界」が徹底的に貶められ、僕が学生の頃は「イメージ批判」というのは当り前のことで、「表象」というのがじつにもてはやされたものである。つまりは蓮實重彦なわけだが、いまでも基本的には何も変っていないだろう。それはそれで意味のあることだったが、イメージの力はまことに強く、いまやポルノグラフィーでも日本の HENTAI が全世界(でもないか)を制覇してしまったわけで、イメージ批判は実効的ではなかった。ちょっと話が逸れたが、結局ポストモダンは mundus imaginalis の力を理解できず、本能的にその危険を恐れたため、却って幼稚なイマージュが海底からボコボコとメタンガスのように湧き上がってきて、いまや留まるところを知らない有り様である。突然であるが禅は mundus imaginalis を殆ど無視するのだよね。あたかもそんなものはないもののように扱う。mundus imaginalis はまた「性」の広大な領域を取り込んでいるが、禅は「性」というものを取り扱わない。いや、仏教そのものが密教系を除き、「性」には及び腰であるようだ。仏教がインターネットに効果を発揮しにくいのも、そういう側面のゆえではないかと思う。
 それにしても、この『意識と本質』が作り上げてみせたツールは見事なもので、読んでいてこんなことが可能なのかと心底驚嘆した。自分などは、この論考が提供してみせたマップの見方が、ようやく大雑把にわかるようになったというレヴェルにすぎない。多くの方々の参戦(?)を期待したい。

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

意識と本質―精神的東洋を索めて (岩波文庫)

しかし自分は思うのだが、いわゆる「萌え」というのは、ユング的元型なのではなかろうか。そういうことをいうと東浩紀さんあたりに罵倒されそうだが。HENTAI というのは、まさしくユング的くにゅくにゅに満ち溢れてはいまいか。ふにゅ?

夜、仕事。

このところ、何でこうネガティブなことばかり書いているのかね。いかんなあと思う。でも、どうもネガティブな感想が浮かんでくるのだものなあ。源一郎さんではないけれど、いまの時代まともな感覚の持ち主ならば鬱にならない方がおかしいと思う。それがどうしてかは自分の手に余る問題である。ただ、子供たちを教えていても痛感するが、いまの人は魂の濃度が薄いというか、何か空洞になっている感じがする。魂の豊かさというのはそれこそ上に書いた mundus imaginalis に関係するが、つまりは想像力が貧困なのだ。ネットを見ていると、粗雑な魂が多いなあとつくづく思う。もう「魂」という言葉が不適切なくらい。そうでないようなブログを読むと、そういう人に限って生きづらくて、希死念慮に囚われていたりする。これは経験的事実であるが、僕が愛読するブログの書き手は生きづらい、「まとも」な人生行程から外れてしまった人が多い。そういう人の方が僕にはじつは「まとも」なのだ。なお、アフィリエイト目的ではてなスターをつけて下さる方は、別にかまいませんが無駄なので、無駄な行為はされない方がよろしいかと思いますよ。そうしたブログにはあまり興味がありません。どうでもいいですけれど。そういうつもりでないのならお許し下さい。