日曜日。曇。
バッハのイギリス組曲第四番 BWV809 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。いま音楽がよくわからないのだけれど、これ悪くないことない?
バッハのイギリス組曲第三番 BWV808 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。いま音楽がよくわからないのだけれど、これやっぱりすごくね?
ブラームスのいわゆる「ヘンデル変奏曲」op.24 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。うーん、こんなヘンデル・ヴァリエーションズは聴いたことがないのですけれど。ヴェデルニコフってどういうピアニスト? Wikipedia だけでは全然わからないな。
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プロコフィエフのピアノ・ソナタ第七番 op.83 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。1991年のライブ録音ということであるが、音質はとても悪い。しかし、なんつーすばらしいプロコフィエフですか。70歳を超えたおじいさんの演奏とはまったく思えない。正確かつ忠実であり、迫力も満点。ああ、これがデジタル録音だったら。それにしても、ヴェデルニコフを知らなかったのは自分だけですか。You Tube に punkpoetry 氏がたくさん上げておられるので、消される前に聴こう。
ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第一番 op.2 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。やっは、これは脱帽。終楽章がカッコよすぎて死亡。しかし、おまいらヴェデルニコフわかんないだろう。ザマーミロ。ところでピアノは何ですかね。スタインウェイではないような気がする。しかしロシアってのはどうなっているのだ。何でこんなすごいピアニストばかり輩出するの? 不思議の国ってやっぱりロシアだろう。
ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」からで、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。モダニズム! ところで You Tube のコメント欄で話題にしている人が何人かいるが、これはストラヴィンスキー自身がピアノ用に編曲した、いわゆる「ペトルーシュカからの三楽章」とは最後がだいぶちがうね。管弦楽版に近い編曲(誰の手になるのかは不明)なのではないかと思う。全体としては、やはりストラヴィンスキー自身の編曲の方が出来がいいのではないか。ヴェデルニコフにはここでも脱帽ですが。
シェーンベルクの三つのピアノ曲 op.11 で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。ヴェデルニコフは19世紀的なピアニズムの延長線上でモダニズムに到達したという感じがする。こういう人って、いそうであまりいないのだよね。だから、後期ロマン派の到達点であると同時に現代音楽の始まりであるこの曲など、ぴったり。
リストのメフィスト・ワルツ第一番で、ピアノはアナトリー・ヴェデルニコフ。ヴェデルニコフの演奏でリストのピアノ・ソナタ ロ短調か「巡礼の年」を聴きたかったのだけれど、You Tube にはこれしかなかった。大変なヴィルトゥオーゾだというのは明白だが、残念ながら曲がつまらない。これではヴェデルニコフの真価がわからない。
なお、例の「Great pianists of the 20th century」の BOX にはヴェデルニコフは入っていない。自分にはギレリス、リヒテル級のピアニストに思えるのだが、一般の認知はこんなものであるらしい。まったく、punkpoetry 氏のアップロードがなかったら、自分も永遠に気づかなかったことであろう。感謝である。
Great Pianists of the 20th Century - Complete Edition Box Set
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ヘタな写真であるが、酸漿(ほおずき)である。本当はウチに生えているやつを撮りたかったのであるが、葉が茂りすぎてオレンジ色の実がよく見えないので、お隣の畑に生えているものを勝手に撮ったものです。お盆のときにお墓の花(?)として供えることもあって、何だかなつかしいようなものだ。
ミスタードーナツ バロー各務原中央ショップ。ドーナツ一個にコーヒーをお代わりしながら、一時間ほど読書する。ここのバローはさすがに日曜日の午後ともなると混んでいるな。ミスドにも客が入れ替り立ち替り入ってくる。もくもくと読書していたら、60歳くらいのおっさんがこっちをじっと見ているのに気づいたのだが、何だったのだろう。別に他に席も空いていたしなあ。おっさんは子供夫婦一家と来ているようだったが、居心地悪そうだった。おっさん、そう他人をジロジロ見るものじゃないですよ。
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白上謙一『ほんの話』読了。副題「青春に贈る挑発的読書論」。基本的な感想は昨日書いた。まったくどういうわけだかわからないが、こういう本を読んでいるとセンチメンタルな気分になっていけない。著者の文章は相当に辛辣であり、偏屈なところをもっているが、性根の純粋さが隠し切れないところがいけないのだ。本書の解説は著者の友人であり、自分は何も知るところがないけれど、著者と同じ学に志した立派な先生であることが伺えるが、その文章を読んでもまたメソメソさせられる始末である。思えば、僕は大学で著者のような先生にひとりも出会うことがなかった。こういうのは、まずこちらがいけないので、よき師を求める心が薄かったのであろう。それでも、やはり残念である。また、あるいは著者のような友人に出会うこともなかった。これもまた自分がいけなかったにちがいない。僕は大学に呆れるようなものしか見なかったし、アカデミックな世界で生きていくこともなかった。蔵書家というような人と親しく交わったこともない。いけない、どうでもいいことばかり書いた。恐らく、本書のような本に自分がセンチメンタルな反応を示す理由は、誰にもわからないだろう。いや、自分にもわからないのかも知れない。ただ、我々は大切なものを既にたくさん失ってしまったのだなと思う。本書はほぼ 60年代を通して書き継がれたものであるが、この段階においてすら著者が同時代に向ける視線は辛辣である。いまとなっては…、これも以下略ですね。とにかく、昔はたとえ世間に知られていなくても、尊敬すべきえらい先生がいらしたものなのだなあと思う。
ほんの話―青春に贈る挑発的読書論 (1980年) (現代教養文庫)
- 作者: 白上謙一
- 出版社/メーカー: 社会思想社
- 発売日: 1980/04
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