こともなし

晴。
昨晩は夕食後に寝たので、昧爽に起床して読書。

音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十八番 K.576(クリストフ・エッシェンバッハ参照)。■バッハ:カンタータ第10番「我が心は主をあがめ」 (カール・リヒター参照)。■モーツァルト:レクイエム ニ短調 K.626 (ヘルベルト・フォン・カラヤン 1961)。カラヤンの「レクイエム」である。これはモーツァルトではない、レクイエムではないというのは簡単で、確かにまあそうなのだが、またカラヤンはそんなにわかりやすくないとも思う。僕の思うところでは、カラヤン自身が作り上げたカラヤン像は、カラヤンを正確に聴くのにむしろ妨げになっているのではないか。特に60年代のカラヤンはそうで、ここでも聴いていると、いわく言いがたい不透明さがあるのに気付かされる。少なくとも僕は内田光子のように、カラヤンを道化者として笑殺し去ることはできない。それは、ある程度音楽のわかる者がすべき態度ではないように思われる。■シューベルト即興曲集 op.90 D899 (アルフレッド・ブレンデル参照)。何かひっかかりがあまりにもないので、そう好きでもないブレンデルを聴いている。ブレンデル・ファンの方、ごめんなさい。

このところトランプ大統領陣営が CNN に幼稚な攻撃を仕掛けているが、あれはまったくの逆効果だろう。実態は権力迎合メディアに成り下がっていた CNN に、偉大な権力批判勢力というお墨付きを与えるに等しい。CNN としては、息を吹き返すきっかけとなるだろう。これなどを見ると、トランプ陣営というのがマスコミ対策という点でもいかに頭が悪いかを示している。ただし、この頭の悪さが大衆を喜ばせるところは、なかなか未来の予測がむずかしい。頭が悪い方がウケるというのは、確かにそういうことは強く見られるからである。というか、それでトランプは大統領になったのだから。大衆操作の手段としてこれを意図しているなら、逆に自分など見当もつかない「頭のよさ」ということになるのだろうか。

我々の生活の根本的なネット化というのは、つまりは我々が皆んなバカで安心したということであり、そのことの可視化であろう。それはどんどんスパイラル・ループとして進行していき、その底はいまだ見えない。思えば自分も本当にバカになったし(元から?)、これからもどんどんそうなっていくであろう。目が覚めるたび、ずぶずぶと底に沈み込んでいっている自分を感じる。それにしても、このことを実感している人がどれくらいいるのだろう。たぶん、50代以上の人は殆ど気づいておられないのではないか。逆に生まれてからネットがあった世代は、現状の相対化が困難だろう。現状の相対化というのはつまりは「教養」(死語)の力で、いまや全世代で殆ど死滅したものである。これからの展望は自分にはまったく見当もつかない。

いかん、暗いですね。もっとポジティブにいこう。

昼から仕事。

愛読するブログで白上謙一という人の『ほんの話』という本を知って早速注文、いま読んでいるが頗るおもしろい。いや「知って」と書いたがそれはじつは正確でなく、谷沢永一氏の『紙つぶて』か何かで書名が頭に残っていた。「ほんの」というのはもちろん「本の」であるが、「ちょっとした、取るに足りない」という意味を含んでいるという記述を記憶している。著者は生物学者のようで、研究にカエルが必要らしく、カエルの時期は忙しい旨本書にある。読み始めたら好物の類とわかったのでぐんぐん読み、このままでは一気に読了してしまう恐れがあるので半分くらいで中断しておいた。もったいないというしみったれた根性である。突然であるが僕はずっとハードボイルドだったのだけれど、ブラームスを聴きすぎたのかしょぼくれたおっさんになったせいか、このところひどくおセンチである。本書の副題は「青春に贈る挑発的読書論」というのだが、いま風の感覚で言ったらダサいとしかいいようがない。しかし自分にはどこか懐かしい世界で、何となく皮肉っぽい(つまり知的な)文章を読んでいるうちにセンチメンタルな気分になってどうしようもなかった。
 僕が読んでいるのは社会思想社の「現代教養文庫」版である。アマゾンのマーケットプレイスで廉価で購入した。「白眼亭寓目」の蔵書印がある(これは著者の蔵書印らしく、もちろん印刷であろう)。「現代教養文庫」は僕が学生の頃はまだ存在したが、いまは社会思想社自体が廃業している。僕が知っている頃はゲームブックなどが多く、買ったことはほとんどない。いま本書巻末の目録を見ても、小栗虫太郎久生十蘭くらいしか自分には唆られるものはなく、まったく視野に入っていなかった文庫レーベルだなと思う。読んだのを覚えているのは、碩学・呉茂一先生の『ギリシャ悲劇』くらいか。だから、学生時に本書を手に取らなくても無理はなかった。こんな本が入っていたというのは、ちょっと驚かされる。
 本書の批評をする気などはまったくない。というか、このブログは書評ブログなどではなく、ただの読書感想文を時々書いているにすぎないのである。だから半分読んでのただの感想であるが、まあ何というか、本書には「文体」がある。どうも文章からただよってくる「体臭」を文体と勘違いされる方がいるが、文体とはそういうものではない。「読書家」というのはどう定義すべきかむずかしい単語であるが、とにかく読書家でないと文体をもつことはまずできない。逆に、ある種の本をそれなりに多く読んでいれば、たいていは文体ができてくるようなものである。かつては、文体をもった学者は少なくなかった。いまは機能的散文の時代であり、「文体」などは通用しない。それは別に日本だけの話ではたぶんないので、これで日本オワタというわけではない。安心されたい。
 本書は著者の意図とはちがうかも知れないが、いまやどうでもいい中身で占められている。なかなか現代人が本書からポジティブなものを得ることはむずかしいだろう。本書のひとつひとつの文章のおしまいにそこで言及された書物の著者名と書名がまとめて記載されてあるが、そもそもこのリストを見て感慨にふけることのできる人間が、いまや 40代以下でどれほどいるか。いやまあ、自分はこれを見て何ともいえない気分になるのだが、それは以下略である。