飯田泰之『マクロ経済学の核心』 / W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』

曇。


ハイドンのピアノ・ソナタ ニ長調 Hob.XVI-24 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル。これぞ晩年のリヒテル。素っ気ない演奏だが、おもしろいとしか言いようがない。ポリーニに許されていなかったのはこういう老い方だ。


ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第十五番 op.144 で、演奏はエマーソンSQ。優れた演奏。自分はまだまだだな。

昨日の台風で、ミニトマトの枝が一本折れてしまった。青い実が10個くらい付いていたやつである。折れたところをハサミで切り取る。

飯田泰之マクロ経済学の核心』読了。新書本であるが、レヴェルはかなり高そうだ。少なくとも自分はすらすら理解できるわけではない。理論的にはわりとオーソドックスなもので、いわゆる中期的なモデルを強調した構成になっているということである。いまや必須であるといわれる経済学的「教養」であるが、それを充分に身に付けるのはなかなか容易なことではない。少なくとも僕のような頭には、物理学の理解の方が遥かに容易である。物理学の理論は、基本的に少数の方程式による演繹の形を採っているから、理論は比較的見通しやすい。しかし、経済学のモデルはいちおう基本的なドグマは存在するものの、やはりかなりアド・ホックな過程を入れざるを得ない。そしてそのあたりの真偽も、物理学のようにはっきりと「実験」によって決着させられるものでもまたない。どうもこちらの方が現実に合いそうだというくらいの、そういうレヴェルでの「曖昧さ」を克服することは、いまのところ出来ていないのだ。
 しかしまあ、問題集でもやればある程度身につけられるのかな。少なくとも、使う数学はそれほど高度なものでなくてもよさそうだ(ってあまり知らないけれども)。ただ、一般人がそこまでやるべきなのかなあという感じである。そして、そこまでやってもせいぜい学部生レヴェルなのだろうな。てか、学部生レヴェルくらいはやった方がいいか。どうするかねえ。

マクロ経済学の核心 (光文社新書)

マクロ経済学の核心 (光文社新書)

しかし、こういう本を読んでいると、我々の生活のために経済学的な数字を「好転させる」べき筈なのに、経済学的な数字を「好転させる」ために我々の生活があるような気になっていくる。これは経済学がいけないというより、我々の「弱さ」を示すものであろう。それにしても、例えば仮に日本経済のためには東京の発展を最優先にすべきで、地方は衰退してもかまわないということが理論的に正当化されたら、我々田舎者はどうすればよいのだろうね。自分たちの故郷を見捨てるべきなのか。いや、これはあくまでも仮定にすぎないですよ。まあそれに近いことを主張している人たちもいるが(東浩紀さんなど)。

そういや銀座の土地価がバブル期のそれを超えたという。ベイエリアには新築マンションがどんどん建設されているこということだ。

しかしね、田舎はまあ住みやすいことは住みやすいのですよ。シロクマ先生の仰るとおり、田舎者には余計な情報がないから、いらぬ欲望を喚起されたりせず、低レヴェルで安定することが出来やすい。東京は、お金があればいいのだろうけれど、お金がない人には結構大変そうだ。それでも東京の魅力ってのは強いのだろうな。文筆家も東京人が多いものね。確かに岐阜は神保町なんてところではない。文化的不毛地に見えるかも知れない。荻原魚雷さんのように、東京は苦労しても住みたいところなのだろう。魚雷さんの出身は三重県で、齢も自分と近い。ブログを読んで共感するところが多い。

ア・ホ・だ・な。

このところよく吉本さんのことを思う。柄谷行人にいわせると、吉本隆明のまわりには、シンパや編集者たちが出入りして、いつもにぎやかそうに見えるけれど、吉本は本当はすごく孤独なんだと。こういうことをいうから、僕は柄谷行人に敬意を払うことがやめられないのである。注意して見ていると、柄谷行人のいうとおり、吉本さんは自分が孤独だということを隠していない。さみしいものだという発言を時々漏らしているのがわかる。あれだけ批判されかつ賞賛されながら、吉本隆明は孤独だった。最近は、柄谷行人も何だか見るに堪えない。僕は柄谷行人にそれほどシンパシーをもってはいないけれど、どうしてあれほどの人が、若いだけが取り柄のどうしようもなく低レヴェルな連中にあんなにバカにされねばならぬのか。ホント、最低でおしまいだという気がする。そんなことを言っていてもどうしようもないわけだが。吉本さんは自殺した江藤淳のことを反芻しておられたようだが、江藤淳の自殺は確かに奥さんの死、自分の病が引き金になったものだろうけれど、とにかく晩年の江藤淳の認識は冥かった。吉本さんは江藤淳とはちがってサブカルを肯定する道を進まれたし、それは圧倒的に正しかったが、吉本さん自身その正しさを理解しつつ、やりきれなさを感じておられたのは明らかである。まったくむずかしい時代になったものだと思う。我々はどうしても自分たちがカスであることから逃れられないのだ。

時々、地方は都会への貴重な労働力と多様性の供給源だったのだから、地方を大切にせねばならぬみたいなことをいう人がいて、上のマクロ経済学本にもちょっとだけそういう発言があるが、田舎者としてはそう言われてもあんまりうれしいわけでもないのですけれど。僕は別に供給されるために田舎で生きているわけではないぜ。

夜、仕事。

図書館から借りてきた、W・G・ゼーバルトアウステルリッツ』読了。鈴木仁子訳。これはやられた感じ。昼過ぎから読み始め、仕事のために中断した以外は、一気に読了した。ゼーバルトというのはいかにも重要っぽい文学者で、崇め奉らずにはいられないようなところがあってひねくれ者にはあまり好ましくないが、本書にはまいりました。著者が本書で何を言いたかったのかとか、そういうことに興味はないけれど、主人公のアウステルリッツ(そう、主人公の名前なのである)の異常さというか、とにかくその異様さの凄みにがっちりと捉えられてしまった。彼は、きわめて高い知的能力をもった変人である。語り手に向かって延々と憑かれたようにしゃべりつづけるのであるが、それが何のためになされるのかがまったくわからない。そして、最後彼がどうなってしまうのかもわからない。背景にナチス・ドイツの存在があるわけであるが、これは自分にはいちばんどうでもよく思われる部分である(ゼーバルトにはあるいは非難される読み方だろう)。とにかく、何が何だかさっぱりわからないのだ。そして、小説全体があたえるどこかモノクロームな雰囲気がすばらしい。これは本書に多数収録されているモノクロ写真のせいでもあるかも知れないが、自分には正直言って写真はどうでもよかった。とにかく、文体自体がモノクロームなのだ。これは、ゼーバルトのもっている「声」なのだと思うが、本書ではそれがまことによく利いている。陰鬱な文学がきらいでない方には、是非お勧めしたい。

改訳 アウステルリッツ (ゼーバルト・コレクション)

改訳 アウステルリッツ (ゼーバルト・コレクション)

そう、これまで読んだ『土星の輪』と『空襲と文学』とは比較にならないすばらしい出来だとも言っておこうか。ゼーバルトの名はこの作品だけで不朽だろう。なんて勝手に思っている。