伊勢崎賢治『テロリストは日本の「何」を見ているのか』/吉田秀和『永遠の故郷 夜』

晴。暖かい。
音楽を聴く。■バッハ:フランス組曲第三番 BWV814(マレイ・ペライア参照)。バッハの置いた音符ひとつひとつに意味を見出すような演奏。■メンデルスゾーン:協奏変奏曲 op.17、言葉のないロマンス op.109、アルバムの一葉 op.117 (参照)。ピアノが乱暴でいまひとつ楽しめない。

ブルッフのヴァイオリン協奏曲第一番 op.26 で、ヴァイオリンはイツァーク・パールマン。相変わらず見事なヴァイオリンだ。よく鳴るし、技術は完璧だし、上手い。しかしパールマン、この曲はたぶん何百回と演奏しているだろうな。緊張感とかはまるでなくて、近所へサンダルがけで散歩にでもいくように気楽に演奏している。この曲はご存知のとおり情熱的な曲だから、もっと突っ込んで演奏してもいいとも思うが、けれどもこんなに楽しそうにヴァイオリンを弾く巨匠にどんな文句がいえるだろう。なお、録音はいいとはいえない(モノラル?)。

昼から県営プール。
伊勢崎賢治『テロリストは日本の「何」を見ているのか』読了。副題「無限テロリズムと日本人」。僕は著者の全著作を読んだわけではないが、本屋で目に留まったときは買って読んできた、信頼する著者である。何より現場を知っており、事実を知っており、徹底して考え抜いている人だ。その著書についてはこれまでに何回かこのブログで取り上げてきたが、たぶんそれは何の役にも立たなかったような気がする。まあ自分の過疎ブログなどに影響力がある筈もないし、またそれを望んでもいないということで、同じことをいうのも嫌になってきたから書かない。本書は真のリアリストの書いたものであるから、読めばもしかしたら文学以上に人間のことがわかるかも知れない。それにしても、これだけの事実をつきつけられながら、著者が諦めないのには驚嘆させられる。時代遅れのことをいうが、これこそが本物の男なのだと思う。マッチョとかは関係なく。

なお、「伊勢崎」の「崎」の字は正しくはこれではないが、活字がないため便宜上この字を当てておく。
著者によると、2015年のソマリア沖への自衛隊の派遣は、国連安全保障理事会決議を根拠とした「集団安全保障」であり、個別的自衛権の行使でも集団的自衛権の行使でもない。どういうことかというと、それは「交戦権」を前提とした軍事行動そのものなのである。つまり、既に憲法第九条は事実として崩れている。そしてそれを裏付けるように、「日本軍」はアメリカ軍が日本でやっているように、半恒久的な軍事基地を既にジブチに建設している。以上は世界が認知している日本の事実である。(p.180-181)

図書館から借りてきた、吉田秀和『永遠の故郷 夜』読了。吉田秀和最晩年の傑作である。何という豊かさであろうか。恐らくは日本人によるヨーロッパ文化理解の絶頂を示すものであろう。日本語としても最上質の散文である。本書はドイツ・リートと著者の人生の交錯を淡々と綴ったものであり、感動的という他ない。本書を読んでいて、個人的にすっかり聴かなくなってしまったドイツ・リートの思い出を喚起され、何ともいえない気持ちになってしまった。本書では特にヴォルフの歌曲に多くページが割かれているが、「Er ist's」についての文章を読んでは、懐かしくて胸を突かれた。学生の頃、ヴォルフの「メーリケ歌曲集」をよく聴いていた記憶があざやかによみがえってきたのである。「Er ist's」というのは英語でいうと「It is」ということで、ちょっと不思議なタイトルだが、歌を聴けばわかる。なんともナイーブな恋の歌なのだ*1。もはや、こういうことが自分の人生で起きることはない。それにしても、かつて繰り返し読んだ吉田秀和から、何と遠いところまできてしまったものか。インターネットの猥雑な世界と吉田秀和は、水と油みたいなものである。もはや、あのようななつかしくも豊穣な世界が帰ってくることは二度とあるまい。
永遠の故郷――夜 (永遠の故郷)

永遠の故郷――夜 (永遠の故郷)

*1:追記。ネットで調べてみると、これは特に恋の歌ということではないらしい。この題は日本語では「春だ」と訳されるのが定訳であって、春の到来を祝いだ歌であることはもちろんだが、そこに過剰に女性あるいは女の子の姿を読み込む必要はないようだ。ただ、自分は勝手にそう思い込んでいたというわけである。「それは君なのだ」というところからそう思ったのだろう。du で呼びかけていることでもあるし。