関川夏央『汽車旅放浪記』/池澤夏樹『詩のなぐさめ』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:フランス組曲第一番 BWV812(マレイ・ペライア)。ペライアフランス組曲が出ていたとは、まったく迂闊にも気づかなかった。僕はいま特にどの演奏家に何を期待するとかはないのであるが、ペライアフランス組曲だけはないのを残念に思ってきたので、とてもうれしい。まああんまり期待しすぎるのも何なのだが、第一番を聴いてみたところでは、簡素で肩の力が抜けた演奏という印象である。もちろん技術的にどうこうという曲ではないし、けれども気を抜いたというのでもなく、曲のありのままを表した演奏というべきであろうか。繰り返しの装飾音も品がいい。興奮させられるというのではないが、さすがにペライアが現在最高のピアニストのひとりであるというに恥じない、期待どおりに近い出来だと思う。なお、第一番しか聴いていないのはもったいないからである(笑)。ゆっくり聴いていこう。

FRENCH SUITES

FRENCH SUITES

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第八番 op.13「悲愴」(ユンディ・リ参照)。終楽章が聴きたくなったので。ユンディ・リはもっと下腹に力を入れろやというような演奏で、過去記事でも散々なことが書いてあって自分で笑ってしまった。しかしこの曲は、ポピュラー曲にもかかわらずおもしろい。同時代でこの曲を聴いた人は、いかに驚いたことであろうか。恐らくは、文学におけるゲーテの『若きウェルテルの悩み』(最近では『若いヴェルターの悩み』とも表記される)に対応するものであろう。もちろんベートーヴェンの自信作であり、「悲愴」という表題はめずらしくもベートーヴェン自身の付けたものである。聴きたかった終楽章は非常におもしろかったが、アナリーゼできない自分は沈黙するしかない。それにしても、時代が進んでもベートーヴェンが弾きやすくなるわけではないというのは、当り前なのかもしれないが不思議なことである。■マルティヌーオーボエと小管弦楽のための協奏曲(ラヨシュ・レンチェス、ネヴィル・マリナー参照)。いや、これものすごくおもしろかった! モダンかあ。モダニズムも自分なんかは全然まだ消化しきっていないね。
このところ本も読まずにダラダラしていたのが、まちがっていたわけではないことが判明。しかし、統合が大変だな。

図書館から借りてきた、関川夏央汽車旅放浪記』読了。関川夏央好きって何なのだろうと思う。それにしてもこの本はおもしろい。同感してくれる人がどれくらいいるのだろう。読んでいて、ローカル線に乗りたくてたまらなくなってくる。この人もまた、鉄道好きを「児戯に等しい」、告白するのもいたたまれないような類の趣味と捉える点で、かの宮脇俊三と同じである。本書でも宮脇については、再三言及されるし、宮脇を直接の主題とした文章もいくつかある。しかしそれは、いまや「鉄ちゃん」たちから神のごとく崇拝されるらしい宮脇俊三についての、紋切り型ではない。むしろ、「鉄ちゃん」たちを怒らせかねないものではなかろうか。けれども、僕は関川の態度を断固支持したいと思う。
 関川夏央はそもそも複雑な、したたかな文学者であるが、鉄道を語ってはかなり素直な感じがする。僕は関川からはだいぶ年下であるが、しょぼくれ中年ぶりでは(関川の態度はそんなに素直に受け取れないが)共感する部分が多くて何ともいえない。ただ、自分はそんなところばかり読んでいるわけではなくて、とにかくこの人の実力(それはたんに文学にとどまらないが、文学に限っても大変なものである)は気持ちがいい。力もないくせにやたら自意識過剰な物書きが跋扈する中で、変な話だが清潔感すら覚える。まだネットには、こういう人は滅多に見かけない。ネットが成熟するには、さらにもうしばらくの時間が必要だということであろう。
汽車旅放浪記

汽車旅放浪記

読んでいて膨大な量の感想が浮かんできたのだが、そのほとんどを書かなかった。まだまだ関川夏央について語りうるにはどうも期が熟していないようだ。
かつて自分の家の最寄り駅は名鉄美濃町線の琴塚駅だったのだが、美濃町線は何年か前に廃線になった。あれで終点の美濃まで乗っておけばよかったといまやしきりに思う。どうせヒマだったのに。
 いまネットを見てみたら、Wikipedia美濃町線どころか、琴塚駅まで項目が立てられていて驚いた。廃止された路線に関し色いろ無駄な知識が得られて、呆れた気分である。廃線はもう10年以上前のことだったのだな。つい先日のような気がする。

夕方、図書館。あまり本を読みたいという気分ではないような気がしていたのに、書架の間をウロウロしていたら知らぬ間にたくさん借りていた。宮脇俊三のある本が「運輸・交通」の棚に置いてあるというので覗いてみたら、鉄道本が山のようにあって驚く。ここでもまた「鉄ちゃん」増加のせいか。音楽本の棚もおもしろい。ちゃんと吉田秀和全集もある。吉田秀和の「永遠の故郷」のシリーズがあったので借りた。
 サンクス各務原三井東店で温かい缶コーヒーを買う。三井山公園に行ってみる。かなり冷えてきて、日没寸前だった。誰もおらず、ぐるりと歩いて写真を撮ってから車に戻る。暖房の入ってくる中で缶コーヒーを飲んだ。

図書館から借りてきた、池澤夏樹『詩のなぐさめ』読了。何だかため息をついてしまう。またしても自分が文学音痴であることを自覚した。著者のいうこれが詩なら、自分が詩と思っているものはじつは詩ではないであろう。僕は詩を「物自体」のようなものだと思っていた。ごろりとそこにころがっている、その存在感こそが詩であると。僕はぽえむにはあまり興味がないのである。
 まあ、僕に詩がわからないことを除けば、本書は悪くない本だ。岩波文庫の詩集から選択されるというおおまかなルールなので、読んだ記憶のあるものが少なくない。やはり呉茂一の古代ギリシア・ローマ詩の翻訳、吉田健一訳のシェイクスピアソネット、そして谷川俊太郎あたりがすごかった。三好達治はよく知らなかったが、大変なものなのではあるまいか(と無知を晒す)。ホント、池澤夏樹がわからないのはご免なさいとしか言いようがない。
詩のなぐさめ

詩のなぐさめ

「日本語で詩というと、それも現代詩などと言うと、どうも印象が暗い。狭い部屋で一人きりで黙々と一行づつを追う感じ。」(p.209)悪かったな、暗くて。何とでも言ってくれ。