こともなし

晴。
音楽を聴く。■マーラー子供の不思議な角笛ジェシー・ノーマン、ジョン・シャーリー=カーク、ベルナルト・ハイティンク参照)。■スカルラッティソナタ K.38、K.39、K.40、K.41、K.42、K.43 (スコット・ロス参照)。すばらしくも美しいチェンバロ。■フンメル:オーボエ管弦楽のための序奏、主題と変奏 op.102 (ラヨシュ・レンチェス、ネヴィル・マリナー参照)。マイナーだが、悪くないのだよね、これが。

昼から一日仕事。夕食をとりながらブラタモリを見る。今日は平泉。笑いつつ知らぬ間にすごく勉強している。毎回思うが、地学がこんなに楽しい学問だとは。一生東北地方の地質を研究してきた東北大学の先生とか、そういう一生も悪くないと本当に思う。どこかですれちがってしまったなあ。
ダニエル・C・デネットを読む。まだ読みかけであるが、少しだけ書く。彼は心について語る人気のある哲学者であり、ネットでも推奨記事を至るところに見ることができる。確かに、僕もお勧めしておこう。けれども、僕はデネットにはまったく興奮させられない。正直言って、ただの哲学的おしゃべりにすぎないと思う。こんな風に感じるのは完全な少数派であろう。内容は僕には下らないが、どうしてなのだろうと思いながら読んでいた。そうしたら、ある程度読んだらわかった。デネットはこう書いている。「(引用者注:物質と精神の)二元論や生気論は、錬金術占星術とともに、すでに歴史のごみ捨て場に葬られている」と。ここなのだ。大多数の読者にはデネットの主張が当然で、特にこの一部分に立ち止まる人はまずいないだろう。すなわち、唯物論こそが科学的に当然の考え方であると。しかし何ということ、僕は必ずしも唯物論を採らないのである。というか、唯物論と唯心論と二元論のどれが正しいか、自分にはわからないのであり、一応、暫定的二元論者なのである。唯物論者に聞こう。人が死ぬ直前と死んだ直後で、その人の状態は唯物論的にどうちがうのか。死という「不可逆的過程」はどうして引き起こされるのか。自分には、人体の物質的状態は臨終の前後でまったく変わらないとしか思えない。死を合理化しうる唯物論的説明と、人体から「魂が抜ける」という二元論的説明と、どちらが「真理」なのか。まあしかし、度し難い非科学的人間として非難されそうなので、このくらいにしておこう。
 ちなみに、犬に心があってバクテリアにはないというデネットの主張は、何を根拠とするのか? 僕は、そのような説明は「科学的に」一貫していないと思う。そのようなデネットの主張は、合理的でないただの思い込みなのではなかろうか。
僕は自分の家の猫が死んだとき、臨終の瞬間がはっきりとわかった。ああ、いま死んだのだと。あれを物理的過程として示すのは、非常な困難をおぼえる。迷信的思考であろうか。
僕はまた、脳の物理的状態と精神の間に深い関係があることを認める。ゆえに、薬物が精神に作用することも認める。それが二元論と矛盾しないのは明らかだと思う。
僕が信じられないのは、この本の内容を生み出したのがデネットの「魂」ではなく、オートマティックな唯物論的過程であるという考え方なのだ。デネット自身はそれをどう思っているのだろう。ただしそれは、機械にこの本とまったく同じ中身の本が書けないということを意味するわけではない。そこのところの微妙なちがい、おわかりだろうか? 僕が言いたいのは、機械と人間の「魂」がたとえまったく同一物を生み出しても、それには別々の説明が可能であるということである。それだけのことだ。たとえば現在の AI は分野によっては人間と同等(以上)なことが可能なくらい進歩しているが、それはじつは人間の脳のシミュレートによって可能になったのではない。それとはかなりちがう数学モデルであり、ニューロンモデルは(いまのところ)それほど有効ではないのである。将来はわからないが。
人間の精神は完全に必然的であり、同時に完全に自由である。それがコンピュータにシミュレート可能であれば、僕はコンピュータが「精神」をもっていると認めよう。そして「唯物論者」になるだろう。
えらく長くなったが、もう少し。ここまでとは少々ちがう話である。デネットに言わせると原初人は例えば「望みどおりに雨を降らせてくれたお返しに、雲はなにを欲しがっているのか」というような思考をするとされる。それは確かにそうであるが、デネットがもしかしたらわかっていないのは、原初人がそう考えるのは言語のいわゆる「比喩」の機能によるものであり、これはあらゆる言語活動において「作動」しているもので、その点に関しては科学もまったく同じだということなのである。科学もまた完全に「比喩の体系」なのであり、その意味で「神話的」なのだ。原初人と現代人で、脳の働き方にはまったく何のちがいもないことは強調されるべきである。それは二〇世紀の言語理論が明らかにしたことである。
元の話題に戻って最後に。僕は比喩的に「心が壊れている」とでもいうべき人は知っているが、「心をもっていない」という人は知らない。人間は状況によってはわりと簡単に「狂う」が、「心がなくなる」ことはない。これは重要ではあるまいか。