ヘーゲル『哲学史講義III』

晴。
寝すぎ。10時間くらい寝て、起きてからさらに寝た。理由はわかっている。なかなかむずかしいものだなあ。焦ってもしかたがない。
昼から県営プール。米屋。肉屋。スーパー。

母のPC用としてヤフオクで落札した SONY VAIO VPCB11AGJ(2010年モデル、参照) 落手。Core i5 M520 2.4GHz、メモリ4GB、HDD320GB、DVDドライブ有、無線LAN有、ACアダプタ有、OS無で 13500円で落札したもの。OSには Linux Mint 18 Cinnamon 64bit を入れる。サスペンドの不具合もなかった。自分以外の人が使うものなので、いまのところほぼ満足できる状況でホッとした。無線LAN設定、ワイヤレスマウスの接続(Linux だから自動でないのです)、Firefox の同期、プリンタドライバのダウンロードと設定、メーラーのデータ移行、必要データの移し替えなどなど、夕ごはん前までかかってしまった。これでいちおう一安心かな。あとはそれなりに不具合なく動いてほしい。
はー、ようやく落ち着いて本を読んだりできるかな。まあ、まだ僕のメイン機のもろもろもやらないといけないのだけれど。

id:SHADEさんのブログエントリーに「アンダーグラウンドの哲学」云々があって、そこのリンク先も読んでなかなかおもしろいと思った。東大で哲学を学んで、でアンダーグラウンドで哲学云々で、何だかすごくて自分とは別世界なのだけれど、そこで怒った人も怒られた人も、たぶん他人の言葉で頭がいっぱいなような気がする。もちろん他人の言葉を頭に入れること自体は悪いことではないけれど、自分が自分の言葉だと思っているものも、実際はそれすらまずまちがいなく他人の言葉にすぎないという事実には、なかなか気づけない。まずはアウゲイアースの家畜小屋を掃除しないと、自分なりの哲学(でなくてもいいけれど)なんてありえないのですよ。哲学だけでなくあらゆることで、あなたがいうことなど、自分がいうことなど、まずまちがいなく既に誰かが言っているのです。それは東大教授の言でも同じことです。でなければ無意味なことしか言っていないということになっている。まあ、それくらいのことならそれこそポストモダン哲学に詳しい、かしこい人たちの頭には入っているだろうけれどね。
平凡人のおっさんがつまらぬことを書いてしまった。

ヘーゲル哲学史講義III』読了。長谷川宏訳。極めておもしろい。ヘーゲル哲学史というのは、個々の哲学を適切に歴史の中に置いていくというようなものなのだろうか。もちろんヘーゲルの意図はそうだったのであろうが、自分には本書は、ヘーゲル哲学による過去の哲学たちとの格闘に見える。正直言って自分には、ヘーゲルの記述が妥当なものなのか、判断する能力も興味もないけれど、過去の哲学たちはすべてヘーゲル哲学にとって完全に理解することが可能であるという、殆ど傲岸不遜なまでのヘーゲルの自信が極めておもしろいのだ。西洋哲学は思考の萌芽から必然的に高度に展開されていったものであり(そして最終巻はまだ読んでいないのだけれど)、最終的にはヘーゲル哲学によって完成されるとヘーゲルが確信していることが、本書からよくわかる。だから、本書では個々の哲学はまさしくヘーゲル哲学によって判断されるのであり、自分にはあまりにも辻褄が合いすぎている気がしてしかたがないのだが、まあ自分のことはいいだろう。とにかくその膂力は圧倒的であり、スリリングというしかないのである。最終巻が楽しみだ。

哲学史講義 III (河出文庫)

哲学史講義 III (河出文庫)

ヘーゲル哲学が西洋哲学の展開を必然的なものとする以上、そのコロラリーとしてアラビア哲学とか東洋哲学というものはヘーゲルには考えられない。しかし、アラビア哲学はともかく、「東洋哲学」がないというのは自分にも概ね賛同できるところである。もちろん東洋思想はまちがいなく存在するのであり、敢て自分のことを語っておけば、東洋思想の可能性はまだ汲み尽くされているには程遠いと確信していると述べておこう。