一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:平均律クラヴィーア曲集第二巻第十三番 BWV882〜第十六番 BWV885 (ヒューイット、参照)。■モーツァルト交響曲第三十一番 K.297 (ムーティ参照)。この曲はブリュッヘンの録音が思い出されるのであるが、ムーティもいいね。小さいけれど、いい交響曲だと思う。■ヴァヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲第一番、ロカテッリ:12の室内ソナタ op.6〜第七番「トンボー」 (レオニード・コーガン、アンドレ・ヴァンデルノート、アンドレ・ムイトニク)。ロカテッリって知らない作曲家であるが、なかなかよかった。ロマン派かと思ったら、バロック音楽なのだな。■シューマン:四つの夜曲 op.23 (アラウ、参照)。アラウはタッチが素晴らしいな。

いま『英米哲学史講義』って本を読んでいるのだが、最初の方がイギリス経験論の講義なのだけれど、ロックによる「自然法」とか「自然状態」なる概念の導入って、全然経験論的でないよね。きわめてア・プリオリなしかただと思う。そして、「自然法」が「自己を保存せよ」「そして自己保存に矛盾しない限りで他者ひいては人類を保存せよ」である(p.60)というのは、近代人が頭だけで拵えた、極めて疑わしい発想だと思う。さらに言えば、これは悪魔の発想なのではないか。こんなものを根底にしている人間とは、なるべく関わりあいになりたくないような気がする。少なくとも、自分のような凡夫には立派すぎる発想である。
一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』読了。とてもおもしろかった。ただ、本書の後半はいわゆる「分析哲学」についての記述なわけだが、前にもこのブログに書いたとおり、分析哲学は自分の「哲学」ではない。分析哲学は、はっきり言って頭のいい人たちの「遊び」である。もちろんそれで悪いわけではなくて、科学哲学としての分析哲学など、正直言って自分はとても楽しんでしまうわけであるが。ここで勝手なことを書かせてもらうと、自分は「帰納法」は科学としてあり得ないと思っている。帰納法は所与のある程度の分量をもったデータからひとつの命題を「導出」するわけであるが、その命題を切り出してくるしかたがデータから必然的に導かれるとするのは不合理である。すなわち、データへの着目点がひと通りである必然性はなく、もし仮にそうであるなら、データの集め方が既に意図的、すなわち演繹的である他はない。すなわち仮説の形成として帰納法はあり得ず、演繹法しかあり得ないのである。もしこれが正しければ、英米哲学の大きな部分が欠けてしまうことになろう。
 などというのはまあ自説であり、僕は自説などにあまりこだわらないので、本書がよくできていることは強調しておきたい。例えば分析哲学というのははっきり言って面倒なものであるが、本書は単純化は仕方がないにせよ、相当にすっきりわかりやすく書かれていて、これなら分析哲学は楽しそうと思えるかも知れない。科学に関する記述も、自分などがいうのは何であるが、科学的におかしな記述は見つけられなかった。さすがにいまの人であるのだなあと学問の進歩を感じる(以前は、相当な大家の記述でも科学的によくわかっていない記述は頻繁に見られた)。お勧めである。

英米哲学史講義 (ちくま学芸文庫)

英米哲学史講義 (ちくま学芸文庫)

ただ、これは自分の頭が悪いのだが、ロックもヒュームも(翻訳で)原典を読んでみると、こういう「教科書」に書いてあることが原典のどういう記述に当たるのか、なかなかわかりにくい。たぶん、「教科書」とは全然ちがう印象だと思う。それはそれで理由があるのだろうが、どうも自分には納得がいかないところがあるのも事実なのである。
蛇足であるが、本書の「ヘンペルのカラス」の記述(p.283-286)について。「すべてのカラスは黒い」という命題について、その対偶は「すべての黒くないものはカラスではない」であり、これは論理学どおり元の命題と同値である。つまり、元の命題を証明する代わりに対偶命題を証明してもまったく構わない。本書に、これは「黄色いバナナ」を発見することで元の命題を証明できることになり、不合理だとしているが、これはまったくおかしな話である。対偶はあくまでも「すべての黒くないものはカラスではない」であり、すべての黒くないものを調べるのはまったく容易なことではないのである。ここでは著者の理解があやふやなのではないか。