『種村季弘傑作選[I]』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:フランス組曲第四番 BWV815(ヒューイット、参照)。バッハの演奏は定形がないのだが、ヒューイットのは素人がふつうに弾く感覚と近いと思う。凡庸といえばそうなのだが、それで何が悪いだろう。■モーツァルト交響曲第四十一番 K.551 (アーノンクール参照)。これは驚くべき演奏だった。まず拷問的な音のきたなさは、第三十九番、第四十番と同じであり、いやさらにひどいと言ってもよい。とにかくこの音のきたなさは、聴いていて非常につらかった。どうして皆んなこれを我慢できるのかがわからない。そして、このモーツァルト、いや全ヨーロッパ音楽の中の最高傑作のひとつであるこの曲をここまで壊したのはすばらしいかも知れないが、自分にはそこで新たに獲得された美点をまったく理解することができなかった。これでアーノンクールモーツァルトを聴くのは三曲目であるから、以前より正確に言えると思う。モーツァルトの音楽は世界(宇宙と言ってもいい)そのものに繋がっている部分があるのだが、アーノンクールの演奏ではそこが断ち切られている。確かに射程は大変に長いが、それは結局頭だけで拵えたものである(音のきたなさもそれに所以しよう)。聴いていて、コスミックな感覚を受けることがまったくない。自分の不満な点はそんな風に言えるかも知れない。アーノンクールの爆発力はおもしろくないことはないが、それは音楽と何の関係があるのか。いや、しかしモーツァルトでなければまたちがうかも知れない。例えば、ベートーヴェンならどうであろうか?
まあしかし、これもまたひとつの偏見にちがいない。自分がアーノンクールモーツァルトに感動する日が、決してこないと誰に言えよう。

昼から県営プール。酷暑。
このところ毎日、父の作ったスイカを食べている。今日のは特に甘かった。
種村季弘を読む。こんな人はいまは殆どいない。おもしろくて仕方ないのだが、いま自分の中では何かが崩壊しまくっていて、種村季弘もまた崩壊してしまうのは(大袈裟に言うと)衝撃でないこともない。例えば種村季弘の言うところでは、現代の性的人間のありかは幼稚園と精神病院にしかないということであるが、我々インターネット世代には、もはやその二つにもないというしかない。我々の幼稚さと病的ぶりは、種村季弘の予想を超えているとしか言い様がないのだ。そしてそれは、それほど大したことでもない。現代の種村季弘が出現しないのも、当然のことである。ただ、我々が種村季弘の限界までいくことは簡単なことではないし、せいぜい種村季弘をおもしろがりたいと思う。また何様的で御免なさい。
それにしても、例えばいまではマニエリスムという術語が急速に忘れ去られた事実を思うと、読んでいて隔世の感で驚いてしまうことが多い。自分などには、グスタフ・ルネ・ホッケなどはかなりのビッグネームだったし、E・R・クルティウスも高い存在だったが、いまの若い人たちには誰それというところであろう。ブルクハルトなどは、いまやニーチェ関連で知られるくらいではないか。ああ、ヨーロッパの碩学たちよ!
ミダス王ではないが、我々は手に触れたすべてを deconstruct してしまう。呪われた時代だ。いや、construct の部分はないのかも。

図書館から借りてきた、諏訪哲史編『種村季弘傑作選[I]』読了。副題「世界知の迷宮」。舌の根も乾かぬうちに何であるが、種村季弘のような人が自分のような幼稚園児に解体される筈もない。ああ、おもしろかった。編者の諏訪氏に反対して(?)申し訳ないが、種村季弘の極限はやはり、(凡庸な言い方になるが)普遍的な神話世界への通路であろう。これがなければ、博覧強記すら何の意味もない。まったくちがうタイプの文学者ではあるが、やはりそこは澁澤龍彦と同じなのである。あまりにも当たり前のことであるが、これは確認しておきたい。彼らは共に、人間の広大な神話的想像力の世界の探求者であった。インターネットを代表とする今日の人工世界の中では、我々の想像力の世界は非常に幼稚なものになっており、「世界」「宇宙」への通路を見失っている。自分がいま種村季弘を読んで感じるのは、我々の日常世界がドバイのように人工化し、貧困化しているのに対し、ここには深い森のような多様性が息づいていることである。なんともなつかしい世界…。「風の谷のナウシカ」の腐海は一見死の世界であったが、ナウシカの見つけた腐海は必ずしもそうではなかった。と、「ナウシカ」などを唐突に思い出してしまったが、宮崎駿もまた森の世界の住人だった筈である。種村季弘の生息地域もまた、無限に広い世界に接続している。我々が神話世界を今更のものだと思い、嘲笑するのは理解できることであるが、人類が生命体である以上、それは単に非常にあさはかな行為である他ない。まあ、我々はゆるやかな絶滅に向かっているような気もするが、もしそうであるなら、それは神話世界から切り離されてしまったがゆえであろう。なかなかそのあたりのことが理解されない。いや、恥ずかしくも大きすぎる話になってしまった。種村季弘ゆえであろう。

全国どこにでもある、徹底的にサニタイズされたイオンモールの世界…。ネット世界と同型である。