鈴木大拙『大乗仏教概論』

晴。
早起き。
音楽を聴く。■シューマン:幻想小曲集 op.12(ル・サージュ、参照)。■ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 op.77 (コーガン、キリル・コンドラシン参照)。■リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調 (ジョルジュ・シフラ)。悪くはない。ヴィルトゥオーゾとして名高いシフラなので、超絶技巧には迫力がある。けれども、正直言って女性的な部分というか、抒情性の表現には不満を感じる。また、十九世紀的というか、かなり崩して弾いていて、また往年のピアニストらしく手癖が多く、現代的な演奏に慣れた耳には違和感を覚えないでもない。また、曲の構築性も弱い。恐らくシフラの得意とする曲なのであろうが、ポリーニの決定的な演奏を始め、あまたの名演のあるこの曲の録音の中では、古くさいタイプの演奏と云うしかないだろう。と、かなり否定的に書いてしまったが、一聴の価値がないわけではないので、どうぞ。

Volume. 1-Liszt

Volume. 1-Liszt

シューベルトピアノ五重奏曲 D667「ます」(ルドルフ・ゼルキン、ハイメ・ラレード、フィリップ・ネーゲルレスリー・パルナス、ジュリアス・レヴィン)。軽く「ます」でも聴くかと思ったのだが、結構しんどかった。これはマジメなゼルキンのせい(?)。堂々たる充実した音楽になっていました。この曲はもう少し楽しくやってもいいのだけれどね。まあいいでしょう。ちなみにこの曲、弦楽はヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロではなくて、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという編成で、ふつうのピアノ五重奏曲とはちがいます。
Schubert: Piano Quintet the Trout / Piano Quintet

Schubert: Piano Quintet the Trout / Piano Quintet


イギリスの EU離脱については、特に言いたいことはない。これから2年あるし、まだまだどうなるかわからないというところだろう。日本の問題としては、当面の円高と、それに伴う株安だろう。これも、皆さん立派な御意見をもっておられるので、言うべきことはない。
 このあと、アメリカはトランプ、日本は自公政権強化という可能性がいちばん高いだろう。いずれも共通しているのは、ネーション=ステートの強化の方向である。ただ、国際金融資本が指をくわえて見ている筈はない。そのあたりも、まあ言っても仕方がないことに属しそうだ。
 このところ思うのは、ネーション=ステートの強化と国際金融資本の支配は、同時に成立するかもしれないということだ。これは自分にしてみれば最悪のシナリオだが、どうもそうなりそうな気がする。そうなれば誰でもわかるのが、国際紛争の激化であろう。むずかしい時代になりそうだ。第三次世界大戦も杞憂ではなくなってきた感じである。
 個人的には、ナショナリズムがさらに強くなるのはあまり好ましく感じられないが、「社会」はなんとか守らないといけないと思っている。いわゆる経済のグローバル化で、我々が「人間らしく」生きていくために大きな役割を担ってきたものが崩壊しつつある。これはもちろん紋切り型で、こういうことを言う人は少なくないのだが、やはり主張せざるを得ない。たぶん、崩壊はくい止められないだろうけれども。それはネットを見ているとよくわかる。それにしても、フーコーの「人間の消滅」というのをよくわかりもせずオウム返ししていた人たちなど、本当に軽佻浮薄でバカだったとつくづく思う。
 とりあえず、若い人たちが結婚して子供が作れる国にしないと、マズいのではないでしょうか。確か、20代男性の7割が結婚していないのではなかったっけ。と未婚のおっさんは思う。

僕にはもちろん子供はいないわけだが、もし子供がいたら、どういうヴィジョンをもたせたらよいか、悩むと思う。というか、学生をしている間は勉強をさせていればよいとして、彼ら彼女らは大人になって社会に出ると、いきなり自分たちがアリジゴクの罠に嵌っていることに気づくことになるのだ。それまでたぶん何も考えていなかっただけ、何が何だかわからないと思う。これではひどいのではないか。あらかじめ何か知らせておかないといけないと痛感する。
まあそういうことは例えばちきりんさんなどがやっていて、若いひとはそういうのを見ればいいのだろうが。そんなのがビジネスになるというのも今風ですね。ただ、ちきりんさんは経済のグローバル化ばんざい、市場ばんざいの人で、搾取する側、破壊する側の勝者だから、何だかそんなことでいいのかとも思うが、それだからこそ言っていることに説得力があるのだろうなあ。「マーケット感覚を身につけよう」とかね。誰も貧乏人の言うことなんて聞かないよね。
いま壊れつつあるのはつまり、ふつうに仕事をして、結婚して、子供を育てるなどということ。ちきりんさんでも、あとの二つはできていないしなあ。僕なんか全部できていない。だからえらそうなことは言えないのだが、それだからこそわかることもあるので、考えていきたいと思う。
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うどん「恵那」にて昼食。恵那ころ蕎麦。
あー、夕飯のカレーがうまかった。ビールも飲んだし、元気が出た。自分で育てたミニトマトもうまいしな(マジです)。暗い気持ちになったら、これでしょう。

鈴木大拙大乗仏教概論』読了。佐々木閑訳。ちょっと何から書こうか迷うが、本書を読んで考えたたくさんのことからしたら、ほんの少しだけしか書くつもりはない。
 まず、本書は37歳の大拙の本格的なデビュー作であるが、後年大拙は本書を抹殺すらしようとし、再版を許さなかったこと。これは訳者後記にある。ベルギーの碩学プサンが、鈴木は大乗仏教を歪めたと、本書を激しく批判しているそうで、訳者も理はプサンにあり、本書には誤りが非常に多いとして、訳者自身の指摘もある。まあ、『大乗起信論』を(恐らく)中国での作と知らず、初期インド経典と確信して語っているなど、僕などにもすぐわかる間違いもある。先に自分のことを語っておくと、自分も本書の記述には最初はかなりの違和感を覚えた。訳者らのいう事実の誤りなどは自分にはわからないが、確かに仏教の中心教義について「言葉で」述べることは非常にむずかしく、どうしても「実体化」をしすぎてしまいがちであり、大拙もその例に漏れないように見えたのである。しかし、本書を通読してまた明らかであったのは、大拙は仏教の核心だけは確実に掴んでいる、そのことは(繰り返すが)明白である。訳者は本書は「大拙大乗経」とでも呼ぶべきだと述べておられるが、これを好意的に受け取れば、まさしく自分の読後感に近い。正直言って、プサンが何者か知らないが、仏教の核心を体得した人間が初めて西欧語で大乗仏教について本格的に記したという重要性は、大変なものであると評価できねば、とても仏教の碩学とは言えない。敢て、本書の核心を指示しておけば、第五章「真如」をよく読めと言いたい。
 個人的には、第八章「業」がかなり示唆的であった。大拙は「業」の概念をあまりにも広げすぎではあるが(しかしそれは歴史的な大乗仏教から見れば誤りではないけれど)、それは措くと、自分は毎日例えばインターネットから多量の「業」を吸収しており、それらは決して消えることはない。それら「業」の展開を、注意深く見守っていくことが重要だと思われた。
 それにしても、一読して大拙のスケールの大きさに圧倒された。大拙は本書は未熟であったと判断されたのであろうが、そんなことは何であろうか。自分など、比較にならず恥ずかしいことを書いているが(ブログを全削除したくなる)、これもまた凡夫一生修行のためである。大拙、もっと文庫化お願いします。それにしても、訳者後記を読んでいると、大拙を訳すような人が仏教を理解していないとは、本当に困惑させられる。たぶん訳者は、本書が誤りだらけにもかかわらず、それが「大拙教」(とまでは訳者は述べていないが、それは大乗仏教というよりは、ヒンドゥー教に近いそうである)ではなく、これもまたまぎれもない大乗仏教なのだということがわかっていない。試みに本書の核心を本書から具体的に指摘して頂きたい。それが「大拙教」なのか大乗仏教なのか、すべてを物語って已まないだろう。
何だか絶望的な気分になってきた…。もはや東洋人ですら東洋が理解できないとは。僕は確信しているが、訳者は頭だけで仏教を理解した気になっている。いや、頭だけで仏教の核心を掴むことは理論的には可能なのだが、それはふつうより遙かにむずかしく、もちろん訳者は成功していない。何だかなあ…。
どうも(愚かなことに)腹が立ってきた。未熟である。しかし、禅寺へでも行ってちょっと公案でもひねくってこいというのだ。阿呆が。そんなに仏教はアマいものではないわ。
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(AM1:25)最初はその気はなかったのだが、訳者(訳者が正しくプサンを理解しているとすれば、プサンも)が仏教の核心を理解していないために、本書の本文が読めていないところを指摘しておこう。本書 p.32 の、大拙によるモニエル・ウィリアムス批判で、大拙が「この考えはあまりもばかばかしい」と言っているのは、まずは「大乗の基本的特性というものが、菩薩の数の増幅にある」という主張を念頭に置いているのは明らかではないか。これは大拙の言うとおり、本当にバカバカしい意見である。訳者(やプサン)が指摘する部分は、これに続く部分というだけのことである。訳者らの主張は意図的に大拙の主張を不当に歪めるもので、まったくフェアでない。それからさらに訳者は、浄土系経典などの極楽のイメージはモニエル・ウィリアムスのいうとおりであるとして、大拙が「自分の都合のいい資料だけを利用し、都合の悪い情報は無視する」と大拙をこき下ろしているが、笑止である。確かに浄土系経典は大乗仏教の経典であるが、それにおける極楽のイメージなど、高々「方便」(大乗仏教で「方便」は極めて重要である)にすぎず、こんなものは大乗仏教の核心ではないし、重要部分ですらない。大拙はウィリアムスが大乗仏教代表させている(これが重要である)部分の拙劣さにあきれているだけのことである。本書一冊訳してそんなことがわからないとは、真理を記しても、鈴木大拙の才をもってすら、誰もを(訳者すら)納得させるには至らないという、書物のむずかしい真理があらわれていると言えよう。以上、これまで。
しかし、訳者も(確信したが)プサンとやらも、仏教には「これさえあれば仏教」というひとつのものがあることに気がついていない(逆にそれがなければ、他に何があっても絶対に仏教ではない)。サンスクリット大乗経典すら、それを理解しなければ、あまりにも多様で(例えば唯識と中論)とてもひとつの「仏教」で括ることは無理である。それがあるからこそ、中国仏教も、チベット仏教も、日本仏教もちゃんと仏教なのである。では、それは何か? それこそ、ちゃんと本書に書いてあるではないか。き・ち・ん・と・読・め。そして体得せよ。