鈴木大拙『禅堂生活』/アルフォンソ・カリオラート&ジャン=リュック・ナンシー『神の身振り』

雨。
音楽を聴く。■バッハ:ハープシコード協奏曲第八番BWV1059(キプニス、マリナー、参照)。聴いたことがない曲だなと思って Wikipedia を見てみたら、断片しか残されていない曲で復元されたものらしい。なるほどね。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第十九番 K.459 (ペライア参照)。モーツァルトのピアノ協奏曲は、この曲から一段と成熟すると思う。モーツァルトの古典時代とも云うべきか。■シューベルト:ピアノ・ソナタ第二十一番 D960 (ピリス、参照)。ピリスの演奏は申し分ない。わりと素直に弾いて、曲の深さを充分に表現している。ホント、ピリスを聴かないでどうするといった感じ。それにしても、この曲は終楽章が大問題だ。はっきり言って出来損ないだと思う。最初の二楽章の深さに、後の二楽章がつり合っていない。結果として、シューベルトを代表する曲なのに、非常にアンバランスになっている。終楽章が偽作とかで、省略できるとよかったのに。■プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第六番 (リヒテル参照)。1960/10/23 Live. プロコフィエフのいわゆる「戦争ソナタ」は、たぶん第七番がいちばん有名で、多くのピアニストが演奏しているし、第八番にはリヒテルの神業のようなモノラル録音が残っていて超絶的であるが、第六番は個人的にはちょっと印象が薄い。しかし、この演奏は見事である。リヒテルは充実していて、ライブ録音ながらほぼ完璧な解釈だ。こうして聴いてみると、プロコフィエフの曲はこけおどかし的なのだが、そのこけおどかしが滅法おもしろいという変ったものである。そして、不協和音の連続でも、どこかに抒情性のような美しいものが忘れられていなくて、それがプロコフィエフを一流の作曲的にした所以であろう。どうも、つい魅力が出てしまうという感じである。無味乾燥な「現代音楽」に陥っていないのだ。■ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第一番 op.78 (レオニード・コーガン、アンドレ・ムイトニク)。んー、惜しいなあ。第一楽章のテンポが速すぎる! これでは、池辺晋一郎先生が「史上最高の旋律」と呼ばれた冒頭の旋律が、死んでしまうではないか。特に第三楽章がいいだけに、残念。

Art of Leonid Kogan

Art of Leonid Kogan

2016年夏_2
鈴木大拙『禅堂生活』読了。横川顕正訳。修行の足りない現在の禅坊主の本を出すのもよいが、鈴木大拙はもっともっと文庫化して欲しい。本書はもともと禅のことを殆ど知らない外国人のために英語で書かれたものだが、いまの日本人もそれと大差ないから、本書をいま出す意義は大いにあるだろう。翻訳は大拙の早世した弟子によるものだそうである。また、これは大拙自身が日本語で書いたエッセイ(とでも云うしかあるまい)が何篇が収録してあって、自分はそれらを読んでとても感銘を受けた。といっても表面的には淡々としたエッセイに過ぎないのだが、今北洪川老師の思い出など、泣けてきそうになった。本当にありがたい書物である。それにしても、玄侑宗久師や安永祖堂老師の存在は(書物を通じてだが)知っているけれど、いまどれほどこうした禅僧が他に居るものなのであろう。自分の無知は限りないので知らないのだろうが、どこか山奥の寺にでもそうしたえらいお坊さんが隠れていたりするものなのであろうか。そうであって欲しいものである。
禅堂生活 (岩波文庫)

禅堂生活 (岩波文庫)

僕などが禅について語るのは恥知らずもいいところなのだが、あんまり禅が知られていないので少しだけ書いておく。YESと言えば銃殺、NOと言えば絞殺、さてどちらかを選べ。禅とは常にこのような問いを自らに突き付けられるに近い。そこには自分の全存在がかかっているのだ。無害な瞑想などとは何の関係もない、きわめて厳しいものなのである。

図書館から借りてきた、アルフォンソ・カリオラート&ジャン=リュック・ナンシー『神の身振り』読了。副題「スピノザ『エチカ』における場について」。
神の身振り―スピノザ『エチカ』における場について (叢書言語の政治)

神の身振り―スピノザ『エチカ』における場について (叢書言語の政治)

  • 作者: アルフォンソカリオラート,ジャン=リュックナンシー,Alfonso Cariolato,Jean‐Luc Nancy,藤井千佳世,的場寿光
  • 出版社/メーカー: 水声社
  • 発売日: 2013/06/01
  • メディア: 単行本
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