中沢新一『熊楠の星の時間』

曇。昼から晴れて暑い。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第十六番 K.451(ペライア参照)。■ハイドン:ピアノ・トリオ ホ短調 Hob.XV-12 (トリオ1790、参照)。
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いくらミニトマトに水をやり過ぎるなと云っても、この暑さだとさすがに水遣りしないと元気がなくなる。しおっとしてしまうのだよね。でも水を遣っておけば、数時間で明らかに元気になるのがすごい。って当り前なのだろうが、ビギナーには不思議なもんです。
夕方、カルコス。なかなかいい本が買えた。
コンビニ。ドラッグストア。それにしても暑い。五月なのに真夏日だ。

中沢新一『熊楠の星の時間』読了。こんな本が出ていたとはまったく気づかなかったので、書店で本書を見つけたときはとても嬉しかった。このところずっと中沢さんの本は出ていなかったので、「自分で考えなさい」ということかなとも思っていたのだが、やはり新著が出ると嬉しさが抑えきれない。ワクワクしながら読んだ。それにしても、再び南方熊楠についての本だとは。中沢さん四〇代のときの『森のバロック』は、学生の時に読んで深く影響を受けたというか、自分の思考のベースのひとつになった本である。南方熊楠。正直言って南方熊楠は自分には歯応えがありすぎるのだが、再読の必要性を強く感じる。本当は全集を買うべきなのだろうが、自分如きでは、なかなか。とにかく本書も感動的な本だった。こういう、理性と感性の双方を深いところで刺激する本は、滅多にない。って絶賛ばかりですね。まあ、自分は本気なのだが、話半分に読んで下さい。僕はもちろん南方熊楠とも中沢さんとも比較にならないカスであるが、彼らのような全体的探求を自分なりにやっていきたいと思うし、本書を読んでさらに勇気が出た。あと、本書で重要視されている、華厳。何とか華厳をさらに勉強してみたいとは以前から思っていたが、これまでの読書では満足できないというのが痛感される。とりあえず国訳一切経を読むしかないのだろうか。ちょっと調べてみないといけないな。
 本書で一応渇が癒えたが、中沢さんの単行本未収録の文章は相当に多い筈である。おそらくその出来栄えに不満があるのだろうが、何とか出して欲しいというのは僕だけであろうか。それとも売れないのかな。もう過去の人と思われているのか知らないが、田舎にも新著を待ち望んでいる人間がここにいるのだけれども。どうかよろしくお願い致します。

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

熊楠の星の時間 (講談社選書メチエ)

それにしても美しい題名だな。「星の時間 Sternstunden」というのは、シュテファン・ツヴァイクの言葉だそうである。創造力の絶頂を示す時期の比喩であるらしい。
華厳はその頂点である「事事無礙法界」というのがまだはっきりと掴めない。おぼろげにわかるような気もするのだが。それから、本書に「その全体性の中ではどんな細部の変化も縁起の作用によって即座に全体性に連絡され、変化は全体に波及していきます」(p.35)とあるのはよくわかるのだが、その次の「しかしその変化によって、『法界』の全体性にはなんの変化も移動もおこらないのです」というのがむずかしい。法界に時間はなく、我々の知覚する現象界と次元がちがうのはわかるのだが、それは静的なのだろうか。というより、法界にあっては時間もまた座標軸のひとつにすぎないから、「変化」という、時間を特別視する考え方は、そもそもおかしいのであろう。
ちなみに、量子力学の世界では、位置 x は時間 t の関数ではない。ここが古典物理学とちがうところであり、その意味で量子力学には「運動」は存在しない。波動関数こそが t の関数であり、しかもそれは(意外にも)決定論的なのだ。つまり、よく量子力学の「確率性」ということが言われるが、確率を計算する元となる波動関数は、確率的ではないのである。これは、まさしく上の話とまったく同型である。つまり、こう言えるかも知れない。法界を記述するのは波動関数である、と。
波動関数そのものはまったくわけがわからない存在である。それが何なのかと問われると、確率計算の元となるというくらいしか、言いようがない。それに、場の量子論だとまた話は変わってくるし。