川喜田二郎『鳥葬の国』

晴。驟雨。
よく寝た。
音楽を聴く。■モーツァルト:弦楽五重奏曲第五番K.593(オルランドQ、今井信子参照)。

川喜田二郎『鳥葬の国』読了。京大を中心とする、学術探検の記録はどれも面白いもので、本書も期待を裏切らない。おそらく、「探検」というものが可能だった、最後の時代の記録であろう。本書は様々な読み方ができるのであり、もちろん学術的な記録に対するリファレンスとしても読めるし、リーダーシップやチームワークというもののあり方を示唆する本として読んだ人も多いようだ。そして、自分は楽しい物語のように読んでしまったわけで、幼稚な読み方ではあろうが、とても惹きつけられて読んだのは間違いない。隊長の深慮の下、若い隊員たちは見知らぬ土地で苦労しながら、大きく成功していく。その頃の日本はまだ貧しく古臭いところを残していたせいか、隊員たちはチベット人の中に同胞人のように入っていき、地元民と交歓する。そのような民族誌調査が深いものにならない筈がなく、学問的に貴重な調査も可能になるわけで、本書の題名になっている「鳥葬」のようすを、ビデオ撮影することもできたわけだ。それにしても、彼らの溶け込みぶりは、彼らが旅立たねばならなくなったときの村人たちの悲しがりようを見ても、わかるというものである。地元民もかぎりなく純であったし、また日本人の隊員たちもそうであった。
 それにしても、本書では地元民に対する偏見というものがまったく感じられない。実際、「未開」のように見える地元民の生活が、その状況においては隅々まで合理的であることを、本書ははっきりと意識的に指摘している。これは、きわめて偉大な態度で、正直言って西洋人の態度ではこれはなかなかにむずかしいことであろう。それにしてもこの隊員たち、じつに愛すべき「野蛮人」たちではないか。ひ弱な書斎派とは、まさしく一線を画している。その書斎派たる自分も、彼らが洵に羨ましいくらいであった。本当に楽しい読書でした。
 なお、著者である川喜田二郎氏は、例の「KJ法」のあの方である。何とも多面体の学者なのだなあ。一時期の京大には、そうした人が少なくなかったが、既にその伝統は途絶えているようだ。残念なことである。

鳥葬の国―秘境ヒマラヤ探検記 (講談社学術文庫)

鳥葬の国―秘境ヒマラヤ探検記 (講談社学術文庫)


日本人の「知」の基礎体力がどんどん低下しているように感じる。あまりにも「事件」ばかり追い過ぎではないか? 山崎行太郎氏ではないが、文学にも哲学にも興味のない人間に、果して政治やニュースがわかるものであろうか。僕は、「意見」なんていうものは、どちらかと云えばどうでもいいものだと思う。馬鹿にでも、「意見」くらいはいくらでも吐けるのだ(ネットの「意見」とは、殆どがこれであろう)。むしろ、「文体」こそが重要なのではないか? もちろんここで云う「文体」は、例の「ちよつと気取つて書け」などという類のものではない。ギリギリの抜き差しならない思考は、必ず「文体」を持つであろう。そうしたもののことである。自戒したい。