山本義隆『世界の見方の転換2』

曇。
音楽を聴く。■サン=サーンスピアノ三重奏曲第二番op.92(フロレスタン・トリオ、参照)。サン=サーンスは大したことないと云われそうであるが、僕は結構いいと思う。ちょっとフォーレっぽい感じ。巨匠たちが切り開いた道を、素直に歩んでいると云うか。■バッハ:管弦楽組曲第二番(カール・リヒター参照)。リヒターは真面目一本だな。もう少し感覚的でもいいのにとも思うが、これは余計なお世話だろう。しかし、いまや謹厳なバッハ先生という演奏は殆どないので、これはこれで貴重だ。

ぼちぼちと山本義隆氏の『世界の見方の転換』を読んでいる。まだ、途中なのだが、ちょっとメモを。
 よくプロの物理学者でも、天動説と地動説は運動の相対性の問題であり、どちらを選んでも(数学的に)同等と発言されていることが多い。しかし、本書を読んでみれば明らかだが、少なくとも歴史上の天動説と地動説に関しては、これは誤りである。つまり、運動が「相対的」であるなら、すなわちそれは座標変換の問題だということになるが、プトレマイオスの体系とコペルニクスの体系は座標変換で互いに行き来できる理論ではない。例えば、プトレマイオスの体系(天動説)では、諸惑星が並んでいる順番を決定することができない。また、コペルニクスの体系(地動説)にあっては、プトレマイオスの体系でかなり大きなウェイトを占めている、エカント(これは奇妙な概念である)の存在に対応するものがない。どちらもお互いに、根本から異なった体系なのである。佐藤文隆先生も、天動説と地動説のちがいは運動の相対性の問題ではないと言っておられた筈だが、以上のようなことが先生の頭にあったのであろうか。それはわからないが。
 それから、本書は自分の気づいた範囲で、エカントについて明快に記述してある唯一の本である。エカントという語を初めて見たのはクーンの著作においてであったが、クーンの説明はよくわからなかった記憶がある。まあ当時の自分が理解できていなかっただけなのかも知れないし、「唯一の」と云うのもあくまでも管見の限りではある。
※追記 第二巻まで読み終えてみると、少なくとも天体が地球と太陽しかない場合、上の記述は誤っているかも知れない。本書の数学的補遺を見ると、コペルニクスの小周転円モデル(これは地動説であるが、周転円を導入している)と(太陽中心系で表した)プトレマイオスの等化点(エカント)モデルは、離心率 e の二次以上のオーダーを無視すると、両者は近似的に、同一の結果を与えるようである(厳密な座標変換が存在するかは、よくわからない)。太陽系全体を考えた場合は(数式レヴェルで)どうなるのかも、今の自分ではよくわからない。以上、注記しておく。
山本義隆『世界の見方の転換2』読了。本巻はコペルニクスを扱う。コペルニクスが地動説(あるいは太陽中心説)を唱導したことは周知だが、彼は楕円軌道に気づかず円軌道を考えたために、辻褄を合わせるため、周転円をここでも採用している。それはともかく、コペルニクスの理論は、直ぐに教会の反発をかったわけではない。コペルニクス自身、自分の理論は数学的モデルであることを強調しているし、コペルニクス理論は意外に早く受け入れられていったようであるが、それも宇宙論的な真実性というよりは、数学的に「現象を救う」ものとして積極的に解釈された。それが、受容者たちの一般的態度で、それは不自然なものではなかったのである。そしてここでも依然として、天文学占星術と密接に結びついている。ただし、天文学(これは数学によって構築されている)を自然学(これは聖書の記述も含む)の下に置く潮流から、しだいに自然学は天文学の事実を認めなければならなくなる、そうした流れができ始める。ここから最終巻に繋がっていくのだろう。以下続巻。