池田晶子『私とは何か』

曇。のち晴。日差しが強い。
音楽を聴く。■武満徹:雨の樹素描、雨の樹素描II、リタニ(舘野泉)。「リタニ」の後半に、「雨の樹」のモチーフにそっくりな部分が出てくるのだが、関係があるのかな。作曲された時期は近い。■ドビュッシー前奏曲集第一巻(ツィマーマン)。現代的なピアニズムによる一流の演奏であるが、正直言って、ツィマーマンならこれくらいは弾けるだろうとも思っていた。その意味では、意外性はなかったかも。

Preludes

Preludes

県営プール。

図書館から借りてきた、池田晶子『私とは何か』読了。読み終えて、ここにも哲学者がいたかという思いになった。本当の哲学者というのは、そうなるべく運命づけられている者のことを云う。生まれながらのと云ってもいい。池田晶子にとって、「自同律の不快」(埴谷雄高)はもって生まれたものであり、外部から得たものではないのだ。だから、そればかりを考えることになるし、究極的には、それについて他人がどう言っていようが、関係ないのである。そうした人は、世の中にほんの少しの割合ながら、存在するのだ。そういう人は本当に少なく、タイプはちがうが、永井均なども、そうした哲学者のひとりだろう。もちろん自分などは、そういう人ではない。我々凡人は、こうした人たちの思索に刺激されて、ものを考えることができるようになるのである。池田晶子は、エッセイ風の平易な言葉で、人を哲学的思考にいざなうところがある。というか、自分で考えてみなさい、と。頭のいい人は、池田晶子にそれ以外のことを求めてはいけない。ここにはすべての知識があるというような、そういうことを求めてはいけないのだ。我々はじつに考えないものである。その扉を開ける、池田晶子とはそうした人のようにも思える。
私とは何か さて死んだのは誰なのか

私とは何か さて死んだのは誰なのか