八木沢敬『神から可能世界へ』

晴。
散髪。県営プール。
八木沢敬『神から可能世界へ』を読んでいて、ちょっと気になるところがあったので、読了していないがメモしておく。p.39-42 の自然数の構成だが、本書のやり方では明らかにダメである。本書では「マリコの左手の指」と「マリコの右手の指」が一対一対応することだけで数を構成できるように書いてあるが、ここには論理の飛躍がある(ちなみに著者は、このアイデアカントールによるものであるように誤解している。カントールは「自然数」との一対一対応を考えたのであって、これは自然数の構成ではない)。「一対一対応」と「自然数」には、この段階では何の関係もない。これが「関係がある」とされれば、既に著者は「数」の概念をどこかから「密輸」している。さらに、自然数の構成のためには、数学基礎論でわかっているとおり、「順序性」と「無限性」が導入されねばならない。著者の紹介するフレーゲの方法は、数学的帰納法を「密輸」している点で、厳密ではない。数学的帰納法も、厳密には論理的に構成されねばならない。詳しくは、岩波講座基礎数学「集合と位相1」の第一章などを見られたい(参照)。ここでは、「無限系譜」の概念が使われている。自然数を厳密に構成するのは、結構面倒なのである。
 もう少し書いておこう。著者は「一対一で余すところのない対応関係」というのは「自然数」の概念を仮定していない、だから大丈夫だと言っているのだが、著者の言いたいのは、これが「自然数」の定義だということなのだろう。しかしこれは、現実には有理数にも当てはまるのである(有理数は countable であり、自然数有理数の濃度は等しい)。つまりこの「定義」は必要十分になっておらず、したがって定義にはならない。いや、「定義」としていけないわけではないが、それは現行の数学とは関係がない世界である。
 ここで多少ややこしい書き方になってしまったのは、著者の(あるいは分析哲学の)記述が曖昧だからである。厳密な公理系から出発していないのだ。ゆえに著者の論旨が確定できず、その言いたいことを推測するしかない。分析哲学が厳密な学問になっていないのが、論争の絶えぬ原因ではないだろうか。(ちなみに、自分は哲学は厳密でなければいけないとは思っていない。むしろそれは不可能である。)
 ついでだから書いておこう。自分はウィトゲンシュタインの「数学はトートロジーである」というテーゼがわからない。例えば、多様体論は集合論に基礎づけられているところはあるが、両者の意味内容が同じだと思う人がいるだろうか。証明は公理や定理に拠ってなされるが、根拠の定理と証明されたところの定理の意味するところは、一般的には等しくない。それは、例えば集合論から多様体論に至るまでに、様々な概念が付け加えられていくからだ。だからその道程に、論理の循環は一般的にないのである。トートロジーと言えない所以である。(ちなみにこれはもちろん、数学にトートロジーは存在しないという意味ではない。)
 さらに。本書 p.74-75 に、「三角形は多角形ではない」という命題があり、そしてこの命題は「思考不可能」である、とあるのだ。正確に引用しよう。

三角形という概念と多角形という概念を両方ともに正確に把握することと、三角形は多角形ではないという思考を持つことはお互いに相容れないことである一方、三角形は多角形ではないという思考を持つということは三角形という概念と多角形という概念を正確に把握することを要求するので、三角形は多角形ではないという思考を持つことはできないのである。

自分にはこれはまったく理解できない。自分には「三角形は多角形ではない」というのはどう考えても思考可能で、実際にこの命題は偽であるとわかる。つまり明らかに「三角形は多角形である」ことがわかるのに、どうして思考不可能な命題なのか。命題が否定的であるからなのか。否定ということはイメージできないからというわけかも知れないが、別にイメージを持てなくても理解可能なことはいくらでもある(でなければ、否定文はすべて思考不可能になってしまう)。「三角形」というイメージと「多角形」というイメージが衝突するから、というわけか。これも同じ反論が成り立つ。「ダルビッシュ」と「大リーグ」というイメージは衝突するかも知れないが、「ダルビッシュは大リーグの投手である」という命題が思考不可能だとでも云うのか。それとも「多角形」というのが「抽象的」だからか。では、「イデアル」という抽象概念を使っている数学者は、代数学が理解できないとでも云うのか。
 もうひとつ。本書の第二章は、アンセルムスの「神の存在証明」について色々書かれている。それは神の定義として「それよりも偉大なものを考えることができないような、そういうもの」(p.49)を採択し、これの証明が可能か分析哲学によって考えているのであるが、この定義を読んで自分がすぐ思ったのは、世界の任意の二物について、どちらが「偉大」か、本当に確定できるのか、ということであった。例えば、チョコボールと鉛筆はどちらが偉大なのか。これは難問ではあるまいか。この定義は、世界の任意の二物に対して比較可能でなければ、妥当性を明らかに欠く。しかし本書は、こういう考え方については何の言及もない。まあしかし、分析哲学についての本だからね。
 さて、ひと通り目を通してみて、確かに分析哲学はつまらなことはない。しかし、明らかにかしこい人向けだし、少なくとも自分の哲学ではないと(思ってきたし、今回もそう)思った。スコラ哲学はスコラ哲学で意味があるだろうが、正直言って、面倒で付き合いきれない。しかし皆さんは、探求してみて下さい。

神から可能世界へ 分析哲学入門・上級編 (講談社選書メチエ)

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