穂村弘『もうおうちへかえりましょう』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:イギリス組曲第二番BWV807、イタリア協奏曲BWV971、トッカータ ハ短調BWV911(グルダ)。さすがはグルダ

Gulda Plays Bach

Gulda Plays Bach

ドビュッシー管弦楽のための「映像」II.イベリア(チェリビダッケ)。

松岡正剛「千夜千冊」の1536夜が、木村敏の『あいだ』を取り上げている。なかなかおもしろい。松岡正剛の特徴は、「ゆるさ」だと思う。厳密でなく、アバウトで、時として胡散臭い。連想が、当っているかどうかわからないところがある。そこいらが、よくも悪くも「日本的」なのだと思う。もちろん、こういう人は希少価値がある。松岡正剛が何の役にも立たなくっても、いいではないか。まあ、「千夜千冊」も時々しか読まないけれど。

穂村弘『もうおうちへかえりましょう』読了。エッセイ集。「ちょっと穂村さんもマンネリだな。いい加減に読むのをやめるか」とか思いつつ、読みかけの続き(一〇一頁から)を読み始めたのだが、ここのところ、章の区切りでも何でもないのに、ここからがすごかった。どういうわけだろう、って気のせいかも知れないのだけれど、したたかに感心させられた。エッセイ風に書かれてはいるが、本質的な村上春樹論、現代短歌論、マンガ批評、どれも間然とするところがない。穂村さんは僕より歳は少し上で、八〇年代をいっぱいに吸収してしまっているところは、よくわかる。まさしく高度消費社会の申し子というべき世代の最初なのだ。まあ、僕は穂村さんほど同時代を吸収せず、同時代をいまひとつどうでもいいものだとも思ってきたので、そこらあたりが天才との差である。本当に穂村さんは天才で、それも我々以降の世代にしかわからない天才なのだという気がする。それにしても、八〇年代のあの無邪気な「キラキラ感」と、最近の明るくも絶望的な世代との差。何ということだろうか。そして、穂村さんはこのところずっと、歌集を出していない。もう、世界の雰囲気が今ではまったくちがうのだ。
もうおうちへかえりましょう (小学館文庫)

もうおうちへかえりましょう (小学館文庫)