ハイデガー『存在と時間(二)』

晴。
大垣。BOOK OFF大垣バイパス店。
ようやく感覚が少しずつ戻ってきた感じ。

ハイデガー存在と時間(二)』読了。「覆いをはずす」こととしての真理。


もし今ピアノが弾けたら、ポリーニエピゴーネンになると思う。頭の中でポリーニ的にピアノが鳴っている。例えばシューマンの幻想小曲集op.12は、彼の録音は存在しないが、自分で頭の中で鳴らしてみると、これはもう殆どポリーニだ。そう、それも七〇年代のポリーニだけれどね。これを否定するのはいとも簡単だが、ここに到達するのは容易なことではない。そもそもそんなことに意味はあるのかと問われるかも知れないが、感性の問題なのだから仕方がないのである。まあ、その頃の彼は三〇代なのだが。
 ショパンの練習曲などは、ポリーニを俟って初めて完璧に弾かれたというほどのテクニック、膨大な音楽的(に留まらぬかも知れない)教養、自我による理想のコントロールを絶対に要求するストイシズム、それと悲劇的なまでに凝縮された情熱、これらの絶対矛盾の自己同一などと(こういう時に西田哲学の紋切型は便利だ)言ってみるか。もちろん、自分の頭の中に鳴っているのは、飽くまでもエピゴーネンの音だ。しかし、ポリーニのピアニズムは、自己解体の歴史でもある。あり得ないさらなる完成を目指して、彼のピアニズムは解体していく。
音楽を聴く。■ショパン24の前奏曲op.28(ポリーニ1974)。これがこの曲の最上の演奏かどうかはわからないが、いかにもポリーニらしいものになっている。徹底的に考え抜かれた演奏。例えば第四番ラルゴなど、技術的にはまったく問題ない曲だが、このやさしい曲を、全体との繋がりも含め、一音も搖るがせず完璧に演奏してみせる。また、いわゆる「雨だれ」の第十五番の後、どのピアニストも緊張するであろう第十六番プレスト・コン・フォーコも、アプローチは第四番と変わらない。アルゲリッチですら技術的に弾き切れないこの曲を、技術的な困難さなどまったく感じさせずに、音楽的に弾いてみせるのだ。それもプレストのテンポで、燐くようなピアニズムは保ったままで。圧倒的である。総じて、この二十四曲がこれほどのエネルギーを以て弾かれたことは、空前絶後のことだと云えるだろう。■ショパン24の前奏曲op.28(ポリーニ2011)。ポリーニの最新録音がこの曲だ。37年ぶりの再録音である。ところどころつまみ食いした(するしかなかった)のだが、どの演奏も、まるで感銘を受けない。技術の衰えはさほどでもないが(しかし第十六番などでは明らか)、完璧に弾かれていてもパトスがまったく感じられない。これこそが機械のような演奏と云うべきだろう。抜け殻になっている。(AM1:06)
ギーゼキングの弾くバッハ、フランス組曲第五番。元のコメントにもあるとおり、クーラントが so crazy fast なのだが、全体としてはとてもいい演奏。ギーゼキングは感情移入というやつをしているのかなというような、ザハリッヒな演奏スタイルが特徴なのだが、だからと云って、決してつまらないと即断ができないところが、音楽のむずかしいところだ。

リヒテルによる幻想曲とフーガBWV944。この曲自体、初めて聴いた。グールドも録音していないと思う。リヒテルのかなり若い時の演奏ではないか。いや、このピアノはヤマハかな。

内田光子モーツァルト、ピアノ協奏曲第二十番K.466(弾き振り)。ライブならではの、途轍もない名演。一部は、まるでレクイエムを聴いているかのよう。特に終楽章の始めが、オケもピアノも何かに憑かれている。凄すぎてちょっと繰り返し聴けないようなものだが。内田光子は、彼女本当に日本人と云っていいのかね。西洋人を超えるほどの強烈な個性だ。ああ、もう寝ないと。これを聴き始めたのが運の尽き(?)。しかし、夜中にこうして You Tube の音楽を漁っているのは、これは至福の時間だね。(AM3:12)